群衆が、止まった
目が覚めた瞬間、昨夜のことが夢ではないかと思った。
葉山の繰り返し発言。スクランブルで止まった群衆。部屋に帰ってからの長い独白。それから明日確かめようと決めて、眠った。
夢にしては、覚えすぎている。
俺はベッドから起き上がった。
スマホを見ると、桐谷から朝のLINEが来ていた。「先輩、昨日ほんとに大丈夫でした?」と、昨夜の俺の返事に納得していない言い方だった。「大丈夫」とだけ返した。返した直後、桐谷は既読にしたが、返信は来なかった。
大学の二限が終わった後、学食で昼を食べていると、葉山が奥の席に座っているのが見えた。一年生の友人と二人で、トレーを挟んで何か話している。
俺は自分のトレーを持って、葉山の席に近づいた。
「葉山」
葉山は嬉しそうに振り向いた。
「あ、先輩。お疲れっす」
「ちょっといいか。昨日の話の続きなんだけどさ」
「え、何の話っすか」
葉山は、本当に思い出せていない顔をしていた。
「居酒屋で、駅でおっさんに絡まれた話」
「あー、しましたねそれ。なんで二回したのか自分でもびっくりですよ」
葉山は笑った。それから少し考えるような顔をした。
「先輩、昨日のあれ、俺、覚えてないんすよ」
「あれ、って」
「自分が同じ話を二回したっていう、その指摘」
俺は黙った。
葉山は屈託なく続けた。
「指摘されたのは覚えてるけど、なんで指摘されたのかは覚えてない。やっぱ寝不足っすね」
葉山は手を振って、友人のところに戻っていった。途中で一度こちらを振り返って、ぺこりと頭を下げた。律儀な後輩だ。
俺はトレーを持ったまま、その場に立ち尽くしていた。
葉山は、昨日の指摘を「覚えてはいる」が、「内容を覚えていない」。
普通、それは矛盾している。
覚えているなら内容も覚えている。覚えていないなら指摘されたこと自体も覚えていない。葉山の中では、両方の状態が共存していた。
昨日は夢ではなかった。
でも、葉山の側には、違和感を保存しておく仕組みがない。
昼休み、俺は渋谷に向かった。
大学から渋谷までは電車で十分。普段なら昼に行くことはない。今日は、確かめたいことがあった。
昨日のスクランブルでの一瞬。あれが本当に起きたのか、あるいは俺の見間違いなのか。同じ場所で、同じ角度から、もう一度観察する。それが昨日の決意だった。
昼のスクランブルは、夜よりも明るい。空気がはっきりしていて、人の輪郭が読みやすい。
俺は信号の手前に立った。
信号が変わるのを待つ。歩行者用信号が青になる。群衆が一斉に歩き出す。俺は歩き出さずに観察した。
最初の信号、何も起こらなかった。
俺は同じ場所で、次の信号を待った。
二回目の信号、何も起こらなかった。
四回目で、起きた。
信号が青になる、その〇・五秒前。
既に歩き出そうと足を上げていた人々の動きが、揃って止まった。
全員が、同じ瞬間に。
手前の若い女がスマホを見ていた指を止めた。隣のサラリーマンが、言いかけた言葉を口の中に残したまま、固まった。少し後ろの中学生が、笑った口の形のまま息を止めた。
彼らの目は、開いていた。
でも、見ていなかった。
俺の心臓が、どくん、と一度だけ大きく鳴った。
次の瞬間、信号機の電子音が鳴り、全員が動き出した。スマホの指は動いた。サラリーマンは言葉を続けた。中学生は笑った。
誰も、止まったことを覚えていない。
俺だけが、覚えている。
俺は信号を渡らずに、その場に立ち尽くした。
帰りの電車で、俺は窓の外を見ていた。
窓の外の景色は普通だった。住宅街、ビル、線路の脇の緑。何も止まらない。何も繰り返さない。
ただ、向かいの席に座っていたサラリーマンが、何度か同じ動作で腕時計を確認していた。三分ごとに、左手首を持ち上げて、文字盤を見て、また下ろす。同じテンポで。
たぶん、それも普通の癖なのだろう。普通の人間は、無意識に同じ動作を繰り返す。
でも今の俺には、その「普通」が、急に怖く見えた。
でも、確認してしまった。
昨日のあれは、夢ではなかった。
葉山の繰り返しも、スクランブルの一瞬も、現実の出来事だった。
現実だが俺以外には保存されない。
俺だけが、これを見ている。
部屋に戻って、俺は机に向かった。
ノートを開いた。
書きながら考える癖がある。
書いたのは、こうだ。
「俺だけが見ている」
その下に、次の問いを書いた。
「なぜ俺だけが見ているのか」
しばらく考えて、答えのようなものを書いた。
「俺だけが、何かを保存できる仕組みを持っているから」
もう一度、線を引いた。
「あるいは——」
ペン先が止まった。
もう一つの可能性が頭をよぎった。
書くのをためらった。
でも、書いた。
「俺の方が、世界に書き換えられているから」
書いた瞬間、寒気がした。
もし、俺の方が世界に書き換えられているのだとしたら。
俺の今までの人生も俺の今までの記憶も俺の今までの感情も、全部、書き換えられた結果なのではないか。
俺は、どこから俺なのか。
俺は、どこから書き換えられているのか。
窓の外で、夕方の鴉が鳴いた。
ノートに書いた最後の一行を、俺はじっと見ていた。
主人公が「気のせい」では済まなくなる回でした。
渋谷の昼のスクランブル、四回目の信号で起きる一瞬。書きながら、自分の目でもその場面が見えていました。
ノートに「俺の方が、世界に書き換えられているから」と書く瞬間、主人公は引き返せない場所に踏み込んでいます。




