表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/17

群衆が、止まった

 目が覚めた瞬間、昨夜のことが夢ではないかと思った。

 葉山の繰り返し発言。スクランブルで止まった群衆。部屋に帰ってからの長い独白。それから明日確かめようと決めて、眠った。

 夢にしては、覚えすぎている。

 俺はベッドから起き上がった。

 スマホを見ると、桐谷から朝のLINEが来ていた。「先輩、昨日ほんとに大丈夫でした?」と、昨夜の俺の返事に納得していない言い方だった。「大丈夫」とだけ返した。返した直後、桐谷は既読にしたが、返信は来なかった。

 大学の二限が終わった後、学食で昼を食べていると、葉山が奥の席に座っているのが見えた。一年生の友人と二人で、トレーを挟んで何か話している。

 俺は自分のトレーを持って、葉山の席に近づいた。

「葉山」

 葉山は嬉しそうに振り向いた。

「あ、先輩。お疲れっす」

「ちょっといいか。昨日の話の続きなんだけどさ」

「え、何の話っすか」

 葉山は、本当に思い出せていない顔をしていた。

「居酒屋で、駅でおっさんに絡まれた話」

「あー、しましたねそれ。なんで二回したのか自分でもびっくりですよ」

 葉山は笑った。それから少し考えるような顔をした。

「先輩、昨日のあれ、俺、覚えてないんすよ」

「あれ、って」

「自分が同じ話を二回したっていう、その指摘」

 俺は黙った。

 葉山は屈託なく続けた。

「指摘されたのは覚えてるけど、なんで指摘されたのかは覚えてない。やっぱ寝不足っすね」

 葉山は手を振って、友人のところに戻っていった。途中で一度こちらを振り返って、ぺこりと頭を下げた。律儀な後輩だ。

 俺はトレーを持ったまま、その場に立ち尽くしていた。

 葉山は、昨日の指摘を「覚えてはいる」が、「内容を覚えていない」。

 普通、それは矛盾している。

 覚えているなら内容も覚えている。覚えていないなら指摘されたこと自体も覚えていない。葉山の中では、両方の状態が共存していた。

 昨日は夢ではなかった。

 でも、葉山の側には、違和感を保存しておく仕組みがない。

 昼休み、俺は渋谷に向かった。

 大学から渋谷までは電車で十分。普段なら昼に行くことはない。今日は、確かめたいことがあった。

 昨日のスクランブルでの一瞬。あれが本当に起きたのか、あるいは俺の見間違いなのか。同じ場所で、同じ角度から、もう一度観察する。それが昨日の決意だった。

 昼のスクランブルは、夜よりも明るい。空気がはっきりしていて、人の輪郭が読みやすい。

 俺は信号の手前に立った。

 信号が変わるのを待つ。歩行者用信号が青になる。群衆が一斉に歩き出す。俺は歩き出さずに観察した。

 最初の信号、何も起こらなかった。

 俺は同じ場所で、次の信号を待った。

 二回目の信号、何も起こらなかった。

 四回目で、起きた。

 信号が青になる、その〇・五秒前。

 既に歩き出そうと足を上げていた人々の動きが、揃って止まった。

 全員が、同じ瞬間に。

 手前の若い女がスマホを見ていた指を止めた。隣のサラリーマンが、言いかけた言葉を口の中に残したまま、固まった。少し後ろの中学生が、笑った口の形のまま息を止めた。

 彼らの目は、開いていた。

 でも、見ていなかった。

 俺の心臓が、どくん、と一度だけ大きく鳴った。

 次の瞬間、信号機の電子音が鳴り、全員が動き出した。スマホの指は動いた。サラリーマンは言葉を続けた。中学生は笑った。

 誰も、止まったことを覚えていない。

 俺だけが、覚えている。

 俺は信号を渡らずに、その場に立ち尽くした。

 帰りの電車で、俺は窓の外を見ていた。

 窓の外の景色は普通だった。住宅街、ビル、線路の脇の緑。何も止まらない。何も繰り返さない。

 ただ、向かいの席に座っていたサラリーマンが、何度か同じ動作で腕時計を確認していた。三分ごとに、左手首を持ち上げて、文字盤を見て、また下ろす。同じテンポで。

 たぶん、それも普通の癖なのだろう。普通の人間は、無意識に同じ動作を繰り返す。

 でも今の俺には、その「普通」が、急に怖く見えた。

 でも、確認してしまった。

 昨日のあれは、夢ではなかった。

 葉山の繰り返しも、スクランブルの一瞬も、現実の出来事だった。

 現実だが俺以外には保存されない。

 俺だけが、これを見ている。

 部屋に戻って、俺は机に向かった。

 ノートを開いた。

 書きながら考える癖がある。

 書いたのは、こうだ。

「俺だけが見ている」

 その下に、次の問いを書いた。

「なぜ俺だけが見ているのか」

 しばらく考えて、答えのようなものを書いた。

「俺だけが、何かを保存できる仕組みを持っているから」

 もう一度、線を引いた。

「あるいは——」

 ペン先が止まった。

 もう一つの可能性が頭をよぎった。

 書くのをためらった。

 でも、書いた。

「俺の方が、世界に書き換えられているから」

 書いた瞬間、寒気がした。

 もし、俺の方が世界に書き換えられているのだとしたら。

 俺の今までの人生も俺の今までの記憶も俺の今までの感情も、全部、書き換えられた結果なのではないか。

 俺は、どこから俺なのか。

 俺は、どこから書き換えられているのか。

 窓の外で、夕方の鴉が鳴いた。

 ノートに書いた最後の一行を、俺はじっと見ていた。

主人公が「気のせい」では済まなくなる回でした。

渋谷の昼のスクランブル、四回目の信号で起きる一瞬。書きながら、自分の目でもその場面が見えていました。

ノートに「俺の方が、世界に書き換えられているから」と書く瞬間、主人公は引き返せない場所に踏み込んでいます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ