なぜか、うまくいく
俺の人生は、なぜかうまくいきすぎていた。
サークルでは自然と中心にいて、バイトリーダーは三ヶ月で任され、初対面の客にも気に入られる。試験は要領で乗り切り、面倒な人間関係でこじれた覚えもない。
だが、それが"努力でも才能でもない"と気づいた瞬間、俺の世界は静かに崩れ始めた。
その夜は、フットサルサークルの定例飲み会だった。
いつもの居酒屋。三年生が席を仕切り、一年生が酒を運ぶ。会費は事前にLINEで集めてあるから、当日に金のことで揉めない。俺が入学した時に作ったルールで今もそのまま回っている。
俺の隣で、一年の葉山が話していた。
「先週、新歓ライブの帰りに、駅でおっさんに絡まれてさあ」
葉山は熱血で、表情がよく動く。話し方も、いちいち身を乗り出す。先輩にも一年生にも好かれているタイプだ。本人は人懐っこさで生きてきたつもりらしいが、たぶん本人が思っているほど計算してはいない。
「で、どうなったかっていうと、結局、その人、自分から泣き出して」
俺はビールを口に運んだ。
手が止まった。
胸の奥が、わずかに冷えた。
その話を、俺は知っている。
一週間前、同じ席で、葉山は同じ話をしていた。
一字一句、間の取り方まで、同じだった。
「葉山」
俺は声をかけた。葉山は嬉しそうに振り向いた。
「先週も、その話してなかったか」
「え、嘘でしょ」
葉山の表情が一瞬だけ止まった。すぐに、困ったように笑う。
「マジっすか。俺、同じ話、二回したのか。やべえ、最近、寝不足で」
俺は曖昧に笑い返した。
でも、覚えている。
先週、葉山は同じ顔で同じテンポで、同じ話をしていた。「で、どうなったかっていうと」のあとに半拍の間があった。今も半拍の間があった。
葉山の隣にいた一年の女の子が、初めて聞いた話のように笑っていた。彼女は先週も葉山の隣にいて、先週も初めて聞いた話のように笑っていた。
俺はグラスを置いた。
「先輩、どうかしました?」
桐谷が向かいの席から訊いてきた。
バイト先の同期で、サークルにも顔を出している後輩だ。彼女はいつも、俺の表情の変化に最初に気づく。
「いや、何でもない」
俺は答えた。
桐谷はしばらく俺を見ていた。視線の長さは、心配しているにしては少しだけ長かった。それ以上は訊かず、隣の一年生に話を振り直した。
たぶん気のせいだ、と自分に言い聞かせた。飲み会の話なんて誰だって似たようなパターンで繰り返す。葉山が同じ話をしたのも、隣の女の子が同じ反応をしたのも偶然だ。
偶然のはずだった。
飲み会は十時前に解散した。
俺はサークルの幹事と少しだけ片付けの話をした。
「遠野、来週の練習、人数足りる?」
「足りる。ていうか、お前、それ俺に確認する必要ないだろ」
「ないけど、お前に訊くと、なんか安心する」
幹事は笑って、駅とは反対方向に歩いていった。
三年生の幹事はこういう時、いつも俺を頼ってくる。何かを決めるとき俺の意見を訊きたがる。それが普通だと思っていた。
考えながら、渋谷のスクランブルに入った。
夜のスクランブルは、いつも人が多い。金曜の夜なら、なおさらだ。信号が変わるのを五十人くらいの群衆と一緒に待つ。スマホを見る人。話している二人組。一人で立っている人。みんな、自分の生活を持っている。
信号が青になった。
歩き始めた、その瞬間。
群衆が止まった。
俺の目には、はっきりと、そう見えた。
歩き出す直前の人々が、半歩を踏み出したまま、空気の中で固まった。スマホを見ていた人の指が動かなくなった。話していた二人組の口が、開いたまま閉じない。
信号機の電子音さえ、途切れた気がした。
全員が、同じ瞬間に、生き物であることをやめた。
時間にして、たぶん〇・五秒もない。
次の瞬間には、全員が普通に歩いていた。何事もなかったように、信号を渡り始めていた。
俺は立ち止まっていた。
心臓の音が、自分でも分かるくらい大きくなっていた。
誰も振り返らない。
俺の前を後ろを横を、人が流れていく。
誰も、たった今、世界が止まったことを覚えていない。
部屋に帰ったのは十一時前だった。
六畳のワンルーム。机の上にノートパソコン。ベッドの脇に読みかけの本。普通の、大学生の部屋だ。
俺は椅子に座った。
スマホを見た。サークルのLINEには、もう次の練習の連絡が回っている。桐谷から「先輩、今日大丈夫でした?」と短いメッセージが来ていた。
「大丈夫」
とだけ返した。
返した後で、桐谷がそれをすぐに既読にするのが分かった。彼女はたぶん、まだ俺のことを心配している。
考えなくていい、と自分に言い聞かせた。葉山の話もスクランブルの一瞬も、たぶん気のせいだ。寝て起きれば忘れている。明日になればいつもの大学生活が始まる。
でも、思い出してしまう。
俺の人生がなぜかうまくいきすぎていることを。
俺は努力した記憶がない。サークルの中心になったのも自然な流れだった。バイトリーダーになったのも店長から「お前にやらせる」と言われた。試験は講義をなんとなく聞いていれば、なんとなく解けた。
観察力がある、と俺は自分のことを思っていた。要領がいい。人を見ている。空気が読める。
でも、本当にそうか。
俺は今、自分のことを「観察力がある」と評価している自分を、少し離れた場所から見ている気がした。誰が誰を見ているのか、急に分からなくなる感覚があった。
俺が「観察した」と思っていたものは、本当に俺が観察したのか。
俺が「要領よく解いた」試験は、本当に俺が解いたのか。
俺が「気に入られた」客は、本当に俺の何かを気に入ったのか。
葉山の話を覚えていたのは、俺だけだった。
スクランブルの一瞬を見たのは、俺だけだった。
もし、世界の方がおかしいのだとしたら。
もし、世界の方が、俺に合わせて勝手にうまく回っているのだとしたら。
ありえない、と俺は思う。
ありえないけれど、佐伯先輩のことだけは、説明がついてしまう。
佐伯先輩。一個上で、去年卒業した。
なぜか、俺はあの先輩の前だけ緊張した。誰にでも好かれる俺が、あの人の前だけは空回りした。あの人だけが、俺を笑わせなかった。
あれだけが、俺の人生で説明のつかない違和感だった。
逆に言えば、あれ以外の全部は、説明のつかない順調さだった。
俺はベッドに倒れ込む。
目を閉じる。
頭の中で、今日の出来事が勝手に並べ替えられていく。
葉山の話。スクランブルの群衆。佐伯先輩。そして、俺の人生。
共通するものが、一つだけある。
「……ありえないだろ」
声に出してみたが、誰も否定してくれなかった。
ありえない、で済ませてきたから、ここまで来たのかもしれない。
明日、確かめよう。
俺の優秀さが、本当に俺のものなのかどうか。
第1話、ついに執筆スタートです。
冒頭の三行を、ずっとこの形で書きたいと思っていました。「なぜかうまくいきすぎていた」という違和感、誰しも一度は感じたことがあるんじゃないかと思います。
葉山の繰り返し発言と渋谷スクランブルの一瞬、それがどこまで気のせいで済むのか。次回、主人公がもう一度、確かめに行きます。




