宮園久という教官
バグE発見の翌日、俺はもう一度、本郷の白い建物に来ていた。
今日も桐谷は、廊下までしか入れなかった。
でも、彼女は前日と違って、少しだけ、軽い表情をしていた。たぶん、昨日の俺の様子から、何か致命的なことは起きていない、と判断したのだろう。
「先輩、今日も頑張って」
「ありがとう」
桐谷はそれだけ言って、ロビーに戻っていった。
特訓室に入ると、宮園さんが床に座っていた。
昨日と同じ場所。同じトレーニングウェア。
でも、表情は昨日より少し、整っていた。
昨日の発動を見た直後の彼女は、まだ動揺の余韻があった。今日は、その余韻を、しっかり整理した後の顔だった。
「おはよう、遠野くん」
「おはようございます」
「座って。今日から、特訓らしい特訓をやるよ」
俺は彼女の向かいに座った。
ガラスの向こうには、今日は誰もいなかった。
「昨日のあれ、あれは偶発発動」
宮園さんは、いきなり本題に入った。
「今日からは、再現性を作る。同じこと、何度でも、起こせるようになる」
「分かりました」
「目標は三つ」
彼女は指を折りながら数えた。
「一つ、発動時間を長くする。昨日は何秒くらい持った?」
「三、四秒くらいかと」
「いいね。いずれ十秒に伸ばす」
「十秒」
「うん。もう一つ、複数の対象に効くか試す。最初は二人。慣れたら三人。最大五人くらいまでは、いける可能性ある」
「五人」
「うん。三つ目は、視線が合った相手にも効くかどうか。これがいちばん難しい。普通、視線が合うと、認知処理は活性化するから、過負荷にしにくい」
宮園さんは指を折り終えて、にっと笑った。
「これ全部、できるようになったら、君は化け物」
「化け物」
「うん、化け物。でも、私は君を化け物にしたいから、ここにいる」
俺はうなずいた。
彼女の言葉は、軽い口調だった。
でも、内容は重かった。
まず、発動時間を伸ばす練習をした。
宮園さんが俺を見ている。俺は、昨日と同じように、彼女の認知処理を過負荷にする情報の流れを作る。
最初の発動は、二秒。
昨日より短かった。緊張が緩んでいたせいかもしれない。
もう一度。
今度は四秒。
もう一度。
今度は六秒。
俺は段階的に、伸ばすコツを掴んでいった。
情報量を増やす。視線、瞬き、息のリズム、空気の流れ──意識する対象を増やすほど、相手の認知への過負荷の質が高まる。
六秒、八秒、十秒。
十秒で、俺は止めた。それ以上は、自分の頭が、過負荷になる気がした。
「すごい」
宮園さんは、コップを取り終えて戻ってくる俺を見て、軽く笑った。
「私、十秒も認識できなかった。君、初日でこれは、ちょっと、規格外」
「分かりました」
「謙虚すぎ」
彼女は俺の頭を、軽く叩いた。
その手の感触は、教官というより、姉のような感じだった。
休憩を挟んで、複数対象の練習に移った。
宮園さんは、特訓室にもう一人、男性スタッフを呼んだ。
「彼に協力してもらう。私と二人、同時に、認知を止める」
俺はやってみた。
失敗した。
宮園さんの認知は止まったが、男性スタッフは普通に俺を見ていた。
もう一度。
今度は男性スタッフの認知が止まったが、宮園さんが俺を見ていた。
二人同時は、難しかった。
俺は何度か繰り返した。
六回目で、ようやく、二人同時に発動できた。
でも、時間は短かった。一秒くらい。
「上出来」
宮園さんは満足そうだった。
「複数対象は、時間が犠牲になる。長く見ていたら、必ず一人は気づく。これは原理的に、避けられない」
「了解です」
俺はうなずいた。
昼休みに、宮園さんは俺を建物の屋上に連れていった。
屋上には、簡単なベンチがあった。
彼女は、コンビニで買ってきたおにぎりを、俺に一つくれた。
俺は受け取って、彼女の隣に座った。
風が少し冷たかった。
「遠野くん、私のこと、どう見てる?」
宮園さんは、おにぎりの包装を破きながら、訊いてきた。
「教官、です」
「それだけ?」
「桐生さんと、違う種類の人だと思います」
彼女は、ふっと笑った。
「違うね、確かに。彼は組織のボス。私は、現場の教官」
俺はうなずいた。
宮園さんは、しばらく、おにぎりを噛んでいた。
屋上の空は、薄い雲がいくつか流れていた。
「私、3年前に、ここに来たんだ」
「3年前、というのは」
「ここに、というのは、Aletheia Roboticsに、じゃなくて」
彼女は、おにぎりを下に置いた。
「この世界に」
俺は、彼女の言葉が、すぐに飲み込めなかった。
「この世界に、というのは」
「言葉のままだよ。私は、この世界の人間じゃない。3年前、外から、ここに入れ込まれた」
彼女の声は、淡々としていた。
告白というほどの重さはなかった。
でも、内容は、軽くはなかった。
「外、というのは」
「私たちが、いま、いる場所の、もう一つ外側」
彼女は、空を見上げた。
「いずれ、君も、その話に、辿り着くと思う。でも、今日は、これ以上は話さない」
「分かりました」
俺は、それ以上、訊かなかった。
訊いても、彼女は答えない、ということが、すでに分かっていた。
でも、彼女の言葉は、俺の中に、別の問いを開いた。
外。もう一つの世界。3年前に入れ込まれた、被験者。
俺の周りには、その「外」を知っている人間が、何人もいる。
佐伯先輩。桐生雅彦。名前不明の彼女。そして、宮園久。
彼らはみんな、同じ「外」から、何かを知って、ここにいる。
午後、特訓は再開した。
視線が合った相手にも、バグE、抜け落ちが効くかどうか、の練習だった。
俺は失敗を繰り返した。
宮園さんと目が合った状態で、彼女の認知を止める。
無理だった。
彼女の目に焦点がある状態で、俺は彼女の認知の中から「抜け落ちる」ことができなかった。
「これは時間がかかる」
宮園さんはあっさり言った。
「でも、いつか、できる。君なら」
「はい」
「君、もうすぐ同期と会わせる」
彼女は手帳を見ながら言った。
「三人、いる。私が見てる範囲で、君が、いちばん能力が強い。でも、彼らも、君の使えない部分を補うかもしれない」
「分かりました」
「楽しみにしてて」
帰り道、駅のホームで、俺はノートを開いた。
書いた。
「宮園さんは、3年前に、外から、ここに入れ込まれた」
線を引いて、その下に書いた。
「彼女は、この世界の住人ではない」
もう一度、線を引いた。
「俺と、同じ場所に、向かっているのか」
最後の一行を、俺はもう一度なぞった。
俺は、この世界の住人だ。
だから、宮園さんとは、違うはずだった。
でも、俺の能力が「規格外」だと言われる事実が、薄く、別の可能性を、示唆していた。
俺も、もしかしたら、この世界の住人ではないかもしれない。
その仮説は、まだ、口に出せなかった。
ノートにも、書けなかった。
宮園さんとの特訓本格開始回。
「私、3年前に、ここに来たんだ」、彼女のさりげない自己開示の一言。屋上のベンチで、おにぎりを食べながら、こういう告白が出る空気感、書きたかった景色のひとつです。
「外」という言葉が初めて出てきました。主人公の中に、新しい仮説が芽生え始めています。次回、同期三人との出会いです。




