そこにいない
加入翌日の朝、俺はベッドの中で目を開けた。
昨日と同じ天井だった。
でも、今日の俺は、昨日までの俺とは、別の場所に向かう。
本郷の白い建物。
Aletheia Robotics。
教官役の人間との、初めての対面。
俺は布団の中で、しばらく動かなかった。
動き出すと、もう戻れない一日が、始まる気がした。
でも、結局、起き上がった。
戻れないのは、昨日加入を決めた時から、もう、決まっていた。
起き上がって、机の前に座った。
ノートを開いて、いままでに見つけたバグを一通り見直しておこうと思った。
組織の特訓に入る前に、自分の手札を頭の中で整理しておきたかった。
ノートのページに、四つのバグが並んでいた。
バグA。バグB。バグC。バグD。
四つの記号が並んでいた。
俺はその並びを、しばらく見ていた。
記号で並べてみると、自分でもどれがどれか、わずかに混乱しはじめていた。
頭の中で、機能と記号を結びつけ直すのに、ひと呼吸必要だった。
俺はペンを取って、各バグに自分用の通称を書き加えた。
バグA:寄り添い(対人最適化、無自覚)。
バグB:先回り(パターン予測、無自覚)。
バグC:書き換え(会話の再描画)。
バグD:上書き(記録の優先)。
書き加えてから、頭の中の整理が、わずかに軽くなった。
通称は、自分の頭の中での簡略な呼び名だった。
組織の人間と話す時には、たぶんバグC、バグDと、記号で話すことになる。
でも、自分の中では、書き換え、上書きと、機能で呼ぶ方が扱いやすい。
俺はノートを閉じた。
組織の特訓で、新しいバグに辿り着くかもしれない。
その時にはまた、通称を追加すればいい。
午後三時、俺は本郷の駅に着いた。
桐谷も同じ電車に乗っていた。
駅から白い建物まで、二人で黙って歩いた。
建物の前で、桐谷は短く言った。
「先輩、無理しないで」
「うん」
「私、廊下までしか入れません。特訓室は、関係者じゃないと」
「分かってる」
桐谷は頷いて、玄関のドアを押した。
ロビーで、名前不明の彼女が待っていた。
彼女は今日も穏やかな顔で、俺たちを迎えた。
「お疲れさまです。桐生は今日、別のフロアです。後でご挨拶に伺います」
彼女は俺たちを、二階の廊下に通した。
廊下の突き当たりに、特訓室と書かれたドアがあった。
「ここから先は、関係者のみです。桐谷さん、すみません」
桐谷は廊下の手前で、立ち止まった。
俺と桐谷の目が合った。
桐谷は、何も言わずに頷いた。
俺も、何も言わずに頷き返した。
ドアの向こうは、思ったより広い部屋だった。
体育館の三分の一くらいの広さ。床は柔らかい素材で、走っても音が立たないようになっていた。
壁の上の方に、監視カメラが四台、それぞれ違う角度から部屋を見下ろしていた。
部屋の隅には、計測機器らしきものがいくつか並んでいた。
奥の壁の一部が、ガラス張りになっていた。
ガラスの向こうに、人影がいくつか見えた。
顔は見えないが、たぶん、同期と呼ばれる人たちだろう。
俺の特訓を、観察するために集まっている。
部屋の中央に、一人の女性が立っていた。
三十代くらい。グレーのトレーニングウェア。髪は短く、化粧は薄かった。
彼女は俺を見て、にっと笑った。
「こんにちは、遠野くん。私が宮園、教官役」
「よろしくお願いします」
俺は頭を下げた。
宮園さんは、ふわっとした笑い方をしていた。
でも、その笑い方の奥に、何かがあった。
彼女もまた、佐伯先輩や桐生雅彦と、同じ種類の目を持っていた。
ただし、桐生のような長く人を見続けた目ではなかった。
もっと違う、何かを「諦めている」ような落ち着きが、彼女の目にあった。
「初日だから、まずはね」
宮園さんは、特訓室を見渡してから、俺に向き直った。
「君の能力を、観察させてほしい。書き換えとかじゃなくて、君が緊張した時、どう動くか、それを見たい」
「観察」
「うん。テストってほどでもないけど、課題を一つだけ出します」
彼女は部屋の隅を指さした。
その場所に、小さなテーブルがあった。テーブルの上に、ガラスのコップが一つ、ぽつんと置かれていた。
「あのコップを、取ってきて、私のところに戻ってきて」
俺は、宮園さんの顔を見た。
彼女の表情は、笑っていた。
でも、課題の難易度は、まだ分からなかった。
「だけ?」
「うん。だけ。条件が一つ。私に、気づかれずにね」
俺は、息を呑んだ。
宮園さんは部屋の中央に立っていた。彼女と、テーブルの距離は、十メートル弱。彼女と俺の距離は、五メートルくらい。
彼女の視野の中には、テーブルもコップも、当然、入っていた。
その視野の中で、俺がコップに近づき、コップを取り、戻ってくる。
気づかれずに。
通常、不可能だった。
彼女が瞬きをする一瞬を狙う、というレベルの話ではない。彼女はずっと俺を見ている。
「分からなかったら、何でもしていいよ」
宮園さんは、にっこり笑った。
「君の能力、いま、解禁。何でも使っていい」
俺は、彼女の意図を理解した。
書き換えで、彼女の認識を「コップは既に取った」に変えればいい。
あるいは、彼女の記憶を「私はコップを見ていなかった」に書き換えればいい。
俺はバグCを発動できる。発動できるはずだった。
でも、できなかった。
宮園さんの目には、書き換えに応じない側の人間の光があった。
桐谷と同じ。佐伯先輩と同じ。彼女自身がそれだ。
書き換えに応じない人間に対して、バグC、書き換えは効かない。
バグD、上書きも、たぶん機能しない。彼女が書き換えに応じないなら、記録の優先という概念そのものが、彼女には届かない。
俺は、立ち尽くした。
「悩んでるね」
宮園さんは、嬉しそうに笑った。
「それでいい。悩んで」
俺は、彼女の言葉に、頭の中で何かが弾けた感覚を受けた。
彼女は、俺が「書き換えできない相手」だと知っていて、この課題を出した。
彼女は、俺が、別の何かを発見することを、待っている。
俺は、目を閉じた。
頭の中で、世界の構造を、考え直した。
書き換えは、相手の認識を上書きする能力だ。
でも、上書きする以外に、相手の認識に、別のアプローチはないのか。
たとえば、相手の認識から、俺だけを、抜き出すことはできないか。
その瞬間、俺の中で、何かが、動いた。
俺は目を開けた。
宮園さんは、相変わらず、俺の方を見ていた。
俺は、一歩、踏み出した。
もう一歩。
その瞬間、頭の中で、情報が、爆発するように流れた。
宮園さんの表情、視線の向き、瞬きのタイミング、息のリズム、僅かな身体の揺れ、部屋の中のあらゆる質感、ガラスの向こうの観察者たちの気配、監視カメラの方向、空気の流れ、自分の足音の周波数。
すべての情報が、同時に、俺の中で処理された。
俺は、その流れの中で、宮園さんの「俺を認知する処理」だけを、ピンポイントで狙った。
彼女の頭の中の、俺に関する情報処理が、過負荷になる瞬間を、作った。
──宮園さんの視線の中で、俺が、抜け落ちた。
彼女の目は、俺の方を向いていた。
でも、その視線の焦点が、ほんの一瞬、俺の身体を通り抜けて、後ろの壁に流れた。
彼女の認知から、俺は、空白になった。
その瞬間、俺は走った。
テーブルまで五メートル。コップを掴み、Uターンして、宮園さんの前まで戻った。
時間にして、たぶん、四秒程度。
でも、宮園さんの認知の中では、その四秒は、なかった。
彼女が、瞬きをして、視線を戻した時、俺は彼女の前に立っていた。
手にはコップがあった。
「これ、どうぞ」
俺は、コップを、彼女に差し出した。
宮園さんは、コップを見て、それから俺の顔を見て、それからもう一度コップを見た。
彼女の口が、ゆっくり開いた。
「えっ」
彼女は、コップを受け取った。
その表情は、子供みたいに無防備だった。
「いま、何が起きたの」
「分かりません」
俺は、正直に答えた。
自分でも、何が起きたか、まだ言葉にできなかった。
でも、頭の中には、すでに、決め台詞のような言葉が、浮かんでいた。
俺は、そこに、いない。
彼女の認知の中で、俺は、その四秒間、いなかった。
俺はその場にいた。でも、彼女の頭の中では、俺は、消えていた。
ガラスの向こうから、誰かが拍手をする音が聞こえた。
一人だけだった。
でも、その拍手は、しばらく、止まらなかった。
「遠野くん」
宮園さんは、コップを大事そうに両手で持っていた。
「君、面白いね」
彼女は、にっと笑った。
「私、君のこと、好きになりそう」
俺は、頭を下げた。
頭を下げながら、自分が、もう、戻れない場所にいることを、確かめていた。
特訓は、その日はそれで終わった。
宮園さんは、俺をロビーまで送ってくれた。
桐谷が、ロビーで待っていた。
彼女の顔を見た瞬間、俺は、自分が変わったことを、また、彼女に知られると思った。
桐谷は、俺の顔を見て、軽く頷いた。
彼女は、何も訊かなかった。
でも、彼女の目には、また一つ、覚悟が乗ったように見えた。
帰り道の電車の中で、俺はノートを開いた。
書いた。
「バグE:認知の処理落ち誘発」
線を引いて、その下に書いた。
「相手の認知の中で、俺が、抜け落ちる」
もう一度、線を引いた。
「俺は、そこに、いない」
最後に、通称を書き加えた。
バグE:抜け落ち。
ペンを置いて、俺は窓の外を見た。
四つ目のバグだった。
桐生は「五つ目までの可能性」と言っていた。
残りは、もう、一つだ。
バグE「認知の処理落ち誘発」発見回。
書きたかった景色、宮園さんの視線の中で主人公が「抜け落ちる」瞬間。情報量を爆発させて、相手の認知処理だけをピンポイントで止める。バグCの「剥がれる」、バグDの「馴染む」とは違う、新しい質感を出せたと思います。
新しい決め台詞「俺は、そこに、いない」、ずっと書きたかった一行です。宮園さんの「私、君のこと、好きになりそう」、彼女のキャラの第一印象として残しました。次回、彼女との特訓が本格的に始まります。




