加入の、合意
翌朝、俺は部屋で目を覚まして、机の前に座った。
ノートには、昨日の桐生雅彦との対話の記録が走り書きで残っていた。
俺は読み返した。
組織の名前──Aletheia Robotics。
目的──世界の構造に気づいた人間を集めて、世界の構造を作っている側と対峙する。
俺の評価──五つ目までのバグを発見できる可能性のある、最初の被験者。
約束──加入を決めたら、佐伯先輩に会わせる。五つ目のバグの存在も教える。
書き出してみると、提示された情報は十分に魅力的だった。
でも、検証できない情報でもあった。
俺はノートの新しいページに、もう一つ表を作った。
加入する場合の利点と、加入しない場合の利点。
加入する場合:佐伯先輩に会える。五つ目のバグを学べる。同じ目をした人間と一緒にいられる。世界の構造に直接アプローチできる可能性がある。
加入しない場合:戦闘ユニットの四人と鏑木さんの環境を維持できる。組織の正体不明のリスクを回避できる。自分のペースで世界を探究できる。
書いてみて気づいた。
加入する場合の利点は、すべて「未知の領域への接続」だった。
加入しない場合の利点は、すべて「既知の領域の保全」だった。
俺がこの選択でどう判断するかはたぶん、俺が「未知に踏み込みたい人間」か、「既知を守りたい人間」かによって決まる。
俺は、しばらく考えた。
答えはもう、最初から決まっていた気がした。
午後、サークル練習の後、俺は葉山と南を呼び止めた。
桐谷もすでに残っていた。
「ちょっと、相談したいことがある」
俺は体育館の隅で、三人に切り出した。
葉山が「マジっすか、どうしたんすか」と前のめりになった。
南は手帳を開いた。
桐谷はすでに何かを察しているような顔で、俺を見ていた。
「俺、組織に誘われた」
「組織って」
葉山が訊いた。
「俺の能力に気づいてる、別の組織。詳しい名前は、後で話す」
葉山の口が半開きになった。
「マジっすか」
「マジ」
南は手帳に何かを書き込んでいた。
「先輩、その組織のリスク評価は」
「現時点で、判断できる情報は限られてる。でも、相手のリーダーは嘘をついている感じはしなかった。ただ、全部を話していない」
「桐谷さんは、どう判断してます」
南は桐谷に振った。
桐谷はしばらく黙ってから、答えた。
「私は、先輩が決めることだと思ってます」
「お前の意見は」
「私の意見も、先輩が決めることです」
「桐谷」
「先輩」
桐谷は俺の目を見た。
「私は止め役です。でも、先輩が踏み込みたい場所には、私は止めない。私が止めるのは、先輩が自分を見失った時だけです」
俺はしばらく言葉を失った。
彼女の言葉には、あらゆる種類の信頼が含まれていた。
彼女は俺の判断を信じている。同時に、俺が壊れる瞬間も見ている。
そういう種類の止め役だった。
夕方、俺はバイトに入って、シフトの後で鏑木さんに話した。
厨房の片付けが終わった後、二人で簡単な仕事をしながら短く伝えた。
「鏑木さん、俺、組織に誘われました」
鏑木さんはシンクを拭く手を止めなかった。
「ふうん」
「決めたら、報告します」
「分かった」
鏑木さんはそれ以上は何も訊かなかった。
でも、シンクを拭く動作が、わずかに、いつもより遅くなった。
「鏑木さん、俺、もし加入したら」
「ん」
「ここのバイト、どうしたらいいですか」
鏑木さんはようやく手を止めて、俺を見た。
「お前、二重生活する気か」
「できれば」
「しんどいぞ」
「分かってます」
鏑木さんはしばらく俺の目を見ていた。
「お前が決めたなら、止めない」
「はい」
「ただ」
鏑木さんは、また手を動かし始めた。
「ここのバイトは、お前が辞めない限り、辞めさせない。それだけだ」
俺は頭を下げた。
鏑木さんの言葉が、いちばん俺を支えていた。
彼は俺の能力の側ではない。でも、俺の側だった。
その距離感が変わらないことが嬉しかった。
帰宅して、俺は机の前に座った。
もう一度、ノートを開いた。
でも、書くことはもうなかった。
決断はできていた。
俺はスマホを取り出して、桐生雅彦のメールアドレスにメッセージを送った。
「加入します。次に、お会いできる日を、教えてください」
送信ボタンを押した瞬間、俺は、自分の人生が、一段、別のレールに乗ったことを感じた。
返信は、五分後に来た。
「お返事、ありがとうございます。明日、午後三時、本郷の白い建物に来てください。教官役の人を紹介します」
「了解しました」
俺は短く返信した。
桐生からのメッセージが、もう一度、来た。
「お前なら、そう答えると思っていた」
俺はその言葉を、しばらく見ていた。
桐生は、俺が加入する前から、俺が加入することを、知っていた。
その確信が、彼にあった。
俺は、その確信を嬉しく感じることもできた。
俺は、その確信を不気味に感じることもできた。
今夜の俺は、嬉しさを選んだ。
不気味さは、明日以降、ゆっくり考えればいい。
桐谷にもLINEを送った。
「決めた。加入する」
桐谷の返信はすぐに来た。
「分かりました。明日、私も同行します」
「来てくれるのか」
「これからも、私は止め役です」
その一行はいつもの彼女の言葉だった。
でも、いつもより、わずかに長く、俺の目に残った。
俺はノートを閉じた。
明日から、二つの世界で生きる。
加入の決断回。
組織の利点と、戦闘ユニットの利点を、ノートに表で並べる場面、書きながら主人公の冷静な計算と、それでも揺れる感情を両方描けたと思います。
鏑木さんの「ここのバイトは、お前が辞めない限り、辞めさせない」、彼の不器用な信頼の一行です。桐谷の「私が止めるのは、先輩が自分を見失った時だけ」、止め役の彼女の覚悟の進化形でもあります。次回、教官役の人物との出会いが訪れます。




