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桐生雅彦という人

 約束の前夜、俺はノートを開いた。

 明日、桐谷の知人だった彼女が、組織の人物と俺を会わせる。

 場所は、文京区本郷。

 白い建物。

 佐伯先輩を見かけたという、あの場所だ。

 偶然ではないことは、もう分かっていた。

 俺はノートに、訊きたいことを書き出した。

 組織の名前。

 組織の目的。

 佐伯先輩の現状。

 俺の能力の正体。

 桐谷との関係。

 書きながら、自分の質問の数がいつのまにか増えていることに気づいた。

 俺は警戒している。

 でも、同時に、答えを聞きたいという欲求が、警戒を上回り始めていた。

 翌日の午後二時、俺は本郷の駅に着いた。

 桐谷も同じ電車に乗っていた。彼女は無言で、俺の隣を歩いた。

 駅から徒歩十分の住宅街の中に、その建物はあった。

 三階建ての白い建物。看板はなかった。

 マンションでもオフィスビルでもない、独立した一軒の建物だった。

 外からは何の組織が入っているか分からない造りだった。

 名前不明の彼女が、玄関の前で待っていた。

「お待ちしていました」

 彼女は短く言って、ドアを開けた。

 中に入ると、予想と違っていた。

 ロビーは普通のオフィスのようだった。受付カウンター。観葉植物。革張りのソファ。

 壁には抽象画が一枚かかっていた。

 彼女は俺たちを、二階の応接室に通した。

 応接室は十畳ほどの広さだった。

 革のソファが二脚、ローテーブルを挟んで向かい合って置かれていた。

 壁の本棚には、心理学と哲学の専門書がぎっしり並んでいた。

 俺は本のタイトルを目で追った。

 ユング、フランクル、レヴィナス、ヴィトゲンシュタイン。

 俺の知っている範囲のまじめな本ばかりだった。

 ここで、まじめな話が行われている。

 そういう種類の部屋だった。

 ドアが開いた。

 四十代の男性が入ってきた。

 中肉中背。グレーのスラックスに白いシャツ。何の主張もない、シンプルな格好。

 顔立ちは整っていたが、印象に残らないタイプだった。

 でも、目だけが印象に残った。

 彼の目も、佐伯先輩や、名前不明の彼女と、同じ種類の目だった。

 ただし、それに加えて、何かが乗っていた。

 長い時間、人を見続けてきた人間の目だった。

「桐生です」

 彼は俺に手を差し出した。

 俺は立ち上がって、彼の手を握った。

 握手は短かった。

「遠野です」

「桐谷さん、ありがとう。後で、上のフロアで少し話しましょう」

 桐谷は頷いて、応接室を出ていった。

 名前不明の彼女も、桐谷に続いて出ていった。

 応接室には、桐生と俺の二人が残された。

「座ってください」

 桐生は向かいのソファに座った。

 俺も腰を下ろした。

「お茶、お持ちしますか」

「いえ、結構です」

「じゃあ、本題に入りましょうか」

 桐生はソファに深く座って、両手をローテーブルの上で組んだ。

 その手の組み方は慣れたものだった。たぶん、彼は今までにこうやって何人もの人間と話してきたのだろう。

「遠野さん、まずお礼を言わせてください。来てくれて、ありがとうございます」

「いえ」

「私たちは、世界の構造に気づいた人間をずっと探していました。そして、ようやく、あなたに辿り着きました」

 俺は息を呑んだ。

「世界の構造、というのは」

「あなたが最近気づき始めていることです。詳しくは、あなたの口から訊くことではないと思っています。でも、私たちは知っています。書き換え。記録の優先。集団の同期。月曜日のループ。佐伯涼が辿り着いた地点と、ほぼ同じ景色を、あなたも見ているはずです」

 俺の指がわずかに動いた。

 佐伯涼。

 桐生の口から、初めて、その名前が出てきた。

「佐伯先輩は、ここにいるんですか」

「はい」

「会えますか」

「いずれ会わせます。今日は、まず私との対話を、お願いします」

 桐生はゆっくり頷いた。

「私たちの組織の名前は、Aletheia Roboticsと言います」

 俺は記憶した。

 外側からは、ただのIT企業に見える名前だった。

「アレテイアはギリシャ語で『真理』、あるいは『隠れていないもの』という意味です。世界の表面に隠された構造を見えるようにする。私たちは、それを目指しています」

「目指す、というのは、具体的には」

「世界の構造を作っている側がいます。私たちはそれと対峙する側です」

「対峙、というのは」

「闘争ではありません。少なくとも、武力的な意味では。情報、認知、選択──そういう次元での対峙です」

 桐生の声は、終始、穏やかだった。

 彼は何の威圧も使わずに、ただ事実として、自分たちの位置を説明していた。

 でも、俺は彼の手の動きを目の隅で観察していた。

 ローテーブルの上で組まれた両手。

 時々、その手の動きが不自然に止まる瞬間があった。

 ほんの一瞬。普通の人なら気づかない程度。

 でも、観察を続けてきた俺の目には、それが見えた。

 彼は慣れた手つきで、自分の手の動きを「自然に見える範囲で」演出していた。

 そういう種類の不自然さだった。

「遠野さん、私たちはあなたを必要としています」

 桐生は彼女と同じ言葉を使った。

「あなたの能力は、私たちの誰よりも強い」

「強い、というのは」

「私たちが知っている範囲で、あなたは五つ目までのバグを発見できる可能性のある、最初の被験者です」

 五つ目。

 俺はバグA、B、C、Dを発見していた。

 桐生の口ぶりからすると、五つ目があり、そして、それ以上もある。

「五つ目のバグは」

「お話しします。ただし、あなたが私たちと一緒に動くと決めたら、です」

 桐生は微笑んだ。

 その微笑みは温かかった。

 でも、その温かさを生み出している目の奥が、ほんの一瞬だけ冷たくなった。

 俺はその一瞬を見た。

 でも、見た瞬間、俺自身が、見たことを疑った。

 錯覚かもしれない。たぶん錯覚だ。

 俺はそう自分に言い聞かせた。

「決断は、急がなくていい」

 桐生はゆっくり立ち上がった。

「明日、明後日、いつでもいい。返事を待っています」

 彼は俺の方に手を差し出した。

 俺はそれを握った。

 握手は最初と同じく、短かった。

「お前なら、できる」

 桐生は俺の目を見て言った。

「世界は、変えられる」

 その言葉は、俺の中の、長く閉じていた何かを軽く揺らした。

 俺は何も答えなかった。

 でも、桐生はその沈黙を「答え」として受け取ったように、頷いた。

 俺と桐谷は応接室を出た。

 ロビーで、名前不明の彼女が待っていた。

「お疲れさまでした」

 彼女は短く言って、玄関まで送ってくれた。

 白い建物の外に出ると、本郷の街は、いつも通りの夕方の光に包まれていた。

 俺と桐谷は、駅まで黙って歩いた。

 彼女は何も訊かなかった。

 俺も何も話さなかった。

 でも、駅のホームで、桐谷は短く言った。

「先輩、桐生さんは、たぶん嘘をついていないです」

「うん」

「でも、全部を話していないです」

「うん」

 桐谷はそれだけ言って、自分の電車のホームに上がっていった。

桐生雅彦との初対面回。

書きながら、桐生の手の動き、目の奥のほんの一瞬の冷たさ、温かい言葉と整いすぎた答え、そういう細部に意識を払いました。主人公はその違和感を、観察しながらも、自分で打ち消してしまう。ここから先、彼の判断は、常にこの「違和感を打ち消す」癖と戦うことになります。

桐谷の「全部を話していないです」、止め役の彼女だからこそ気づける一言です。次回、主人公は決断します。

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