同じ目を、している
翌日、午後二時半に俺は新宿の駅に着いた。
桐谷から指定されたカフェは、駅から十分ほど歩いた、雑居ビルの三階にある店だった。
看板は控えめで、入り口の階段は古かった。観光客が紛れ込むタイプの店ではない。常連と、それから「人と話すために選んで来る人」が使う店だった。
俺は一段ずつ階段を上った。
胸の中で心臓のリズムが少しだけ速くなっていた。
でも、足は止まらなかった。
店内は思ったより明るかった。
窓から午後の陽が差し込んで、木の床に長い影を作っていた。客は俺たち以外に二組だけだった。
桐谷は窓際の四人席に座っていた。
彼女の向かいに、もう一人いた。
昨日、銀杏並木のベンチで遠目に見たあの女性だった。
肩までの黒髪。今日はグレーのジャケットではなく、紺のセーターを着ていた。
俺はテーブルに近づいた。
桐谷が立ち上がって、頭を下げた。
「先輩、来てくださって、ありがとうございます」
「いえ」
女性も立ち上がった。
俺はその瞬間に彼女の目を見た。
──同じ目だった。
佐伯先輩の目と似ていた。
いや、似ているのではない。同じ種類の目だった。
何かに気づいた人間の目。
世界の表面ではなく、その裏側を見ている人間の目。
俺はしばらく、彼女の目から視線を外せなかった。
彼女もまた、俺の目をしばらく見ていた。
俺たちの目はたぶん、お互いの中に同じ何かを見つけていた。
女性が先に口を開いた。
「お会いできて、よかった」
声は低くて落ち着いていた。
「桐谷さんから、お話は聞いています。最低限の範囲で」
「はい」
俺は短く答えた。
「とりあえず、座りましょうか」
俺は桐谷の隣に座った。
女性は俺たちの向かいに、ゆっくり腰を下ろした。
彼女はコーヒーを既に頼んでいた。俺と桐谷は、店員にメニューを頼んだ。
俺はコーヒーを、桐谷は紅茶を頼んだ。
オーダーが運ばれてくるまで、誰も何も話さなかった。
でも、その沈黙は気まずいものではなかった。
お互いに、相手を観察するための時間だった。
オーダーが揃ったところで、女性が口を開いた。
「私は、名前を、まだ名乗れません」
「分かりました」
「あなたを呼ぶときは、『遠野さん』でいいですか」
「はい」
俺はそれだけ答えた。
彼女は微かに笑った。
その笑い方も、佐伯先輩を思い出させた。
完全に心から笑っているわけではない。でも、嘘の笑いでもない。「礼儀の範囲で笑う」、そういう種類の笑いだった。
「遠野さん」
彼女はゆっくり言葉を選んでいた。
「あなた、最近、何かに気づき始めましたよね」
俺は、答えなかった。
でも、答えないこと自体が、答えだった。
「私たちは、それを知っています」
「私たち、というのは」
「私の所属する、組織です」
俺は息を呑んだ。
組織。
俺の能力に気づいて、俺に接触してくる、組織。
「組織の名前を、教えてもらえますか」
「いずれ、お話しします。今日は、まず、お会いするだけです」
彼女は紅茶を一口飲んでから、続けた。
「私たちは、あなたを、必要としています」
俺は黙って、彼女の目を見た。
彼女の目は、その言葉を発する間、揺らぎを見せなかった。
嘘ではなかった。少なくとも彼女の側で嘘ではなかった。
「俺に、何をさせたいんですか」
「今日はそれは話せません。先に、私たちが何者かをもう少しお話しする機会を、別途設けたいと思っています」
「いつ」
「来週中に。場所は、桐谷さんを通じてお知らせします」
彼女は淡々としていた。
彼女の側に急ぐ気配はなかった。
主導権は明らかに彼女の側にあった。
俺はそれを何となく感じた。
でも、その「主導権」は嫌な感じではなかった。
手慣れた人間が、手慣れたやり方でこちらの警戒を解こうとしている、という種類のものでもなかった。
彼女はただ、俺たちが「同じ側」にいることを自然な前提として話していた。
「最後に、一つ、訊いていいですか」
「どうぞ」
彼女は紅茶を置いた。
「あなた、佐伯涼って、知ってますか」
彼女の表情は変わらなかった。
でも、目の奥でほんの一瞬、何かが動いたのを俺は見た。
「お答えできません」
彼女はそれだけ答えた。
でも、その「お答えできません」は「知らない」という意味ではなかった。
「分かりました」
俺はそれ以上は訊かなかった。
訊いても、彼女は答えない。それは訊く前から分かっていた。
でも、訊いたことで、俺は一つの確信を手に入れた。
彼女と佐伯先輩は繋がっている。
たぶん、同じ組織の中で。
会話は、それでほぼ終わった。
彼女はコーヒーの代金をテーブルに置いて、立ち上がった。
「では、また、お会いします」
彼女は俺たちに頭を下げて、店を出ていった。
階段を降りていく足音が、しばらく聞こえていた。
その足音は、しっかりした、迷いのない足音だった。
俺と桐谷は、テーブルに残された。
桐谷は俺の方を見た。
「先輩」
「うん」
「どう感じました」
「同じ目をしてた」
桐谷は頷いた。
「私もです。先輩と、あの人と、同じ目」
「桐谷、お前も気づいてたのか」
「最初に会ったときから」
桐谷は、紅茶のカップを両手で包むように持っていた。
「だから、私は、先輩を彼女に紹介したくなった、と思います」
俺はそれ以上は何も言わなかった。
桐谷の選択を責める気はなかった。
彼女も、俺と同じ場所に向かおうとしているだけだった。
帰り道、駅のホームで俺はノートを開いた。
書いた。
「彼女は、佐伯先輩と繋がっている」
線を引いて、その下に書いた。
「俺は来週、もう一度、彼女に会う」
もう一度、線を引いた。
「俺は、組織に近づいている」
車両のドアが開いた。
桐谷が俺の隣に立った。
「先輩、来週、私も同席しますね」
「うん」
「これからも、私は止め役です」
「分かってる」
桐谷はそれ以上は何も言わなかった。
電車のドアが閉まって、車両が動き始めた。
俺は車窓の外の街の灯りを、しばらく見ていた。
「同じ目をしている」、ずっと書きたかった台詞でした。
新宿の雑居ビルの三階の小さなカフェ、書きながら自分も階段を上る感覚を味わいました。彼女の目を見た瞬間、佐伯先輩と同じ種類の目だと気づく場面、ずっと書きたかった景色のひとつです。
彼女は名前を名乗らない。でも、何者なのかは、もうすぐ見えてきます。次回、もう一度、彼女との対面が訪れます。




