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お前の中の店を、書き換える

 目が覚めた瞬間、頭の中で時計が動いていた。

 今日が、その日だ。

 俺はベッドに座ったまま、両手を膝の上に置いた。手のひらは乾いていた。緊張で湿るタイプではないらしい。

 ノートを開かなかった。

 書くことは、もう全部書いてある。

 午前中、俺は普段通りに大学に行った。

 講義は身が入らなかった。教授の声が遠い場所で鳴っているように聞こえた。

 昼、構内のベンチで桐谷からLINEが来ていた。

「先輩、無理しないでください」

 俺は短く返した。

「分かってる」

 桐谷の返信はすぐに来た。

「私、五時前に店に入ります」

「了解」

 それ以上、何も言葉は要らなかった。

 午後三時、Café Letheに入った。

 エプロンをつけて、いつも通りカウンターに立った。

 鏑木さんはいつも通り厨房で仕込みをしていた。目が合った時、彼は短く頷いた。

 店長は普通に接客をしていた。今日が「あの男が来る日」だと、もちろん覚えていた。彼女の手の動きが、いつもより少しだけ硬かった。

 俺は鏑木さんに目配せをして、厨房の隅で短く話した。

「南から、最終データ来てます。あとで店長の帳簿に、こっそり挟みます」

 鏑木さんは頷いた。

「店長は、午後四時頃から落ち着かなくなる。お前の仕事を見える位置に置いとくな」

「お願いします」

 短いやり取りだった。

 午後四時三十分、桐谷が客として店に入ってきた。

 茶色のコート。あの新宿で会った時と同じものだった。

 彼女はいちばん入口に近い窓際の席に座って、コーヒーをオーダーした。

 俺はオーダーを取りに行った。

「ホットコーヒーで、お願いします」

 桐谷はいつもの口調だった。

「かしこまりました」

 俺はメモを取って、カウンターに戻った。

 目の合わせ方は、店員と客のそれだった。

 でも、すれ違いざまに、桐谷は俺の腕にほんの一瞬、指を触れた。

 大丈夫、という意味だった。

 午後四時五十六分、ドアの鈴が鳴った。

 いつもの軽い鈴ではなく、二週間前と同じ重い音だった。

 顔を上げる前から、俺は誰が来たか分かっていた。

 山岸義仁が立っていた。

 二週間前と同じスーツ。同じ髪型。同じ高そうな靴。

 彼は店内を見渡してから、まっすぐ店長を見た。

「店長さん、お時間、いただけますか」

 声は丁寧だった。

 店長の顔が一瞬、青くなった。

 でも、すぐに作り笑顔を浮かべて、奥のテーブルに案内した。

 二人は、二週間前と同じ席に座った。

 俺はカウンターの内側で、息を整えた。

 準備はできている。

 南からのデータは、すでに帳簿に挟まれている。

 桐谷は窓際の席から、こちらを見ている。

 葉山と南は、店の外で待機している。

 鏑木さんは厨房の入り口から、視線だけで俺を見ている。

 タイミングは店長が「帳簿をお見せします」と言った瞬間だ。

 その時、俺はお茶のおかわりを持って、二人のテーブルに近づく。

 奥のテーブルから、店長の小さな声が聞こえてきた。

「えーと、先日のお話の件なんですけれど、もう少し検討させていただきたくて」

 山岸は穏やかに笑った。

「お時間は十分に差し上げました。今日は、お返事をいただきに来ました」

「そう、ですよね……」

 店長の声が震えていた。

「あの、念のため、最近の業績のデータを、ご覧いただけますか」

 来た。

 タイミングだった。

 俺は給茶器からお茶を二つ、トレーに乗せた。

 奥のテーブルにゆっくり近づいた。

 歩きながら、頭の中で決め台詞をなぞった。

 お前の中の店を、書き換える。

 二人のテーブルの脇に着いた。

 山岸は店長の差し出した帳簿を、ちょうど受け取ろうとしていた。

 俺はその瞬間に、お茶を二人の前に置いた。

「失礼します。お茶、お持ちしました」

 声は穏やかだった。

 山岸は俺をほんの一瞬だけ見た。

 俺はその一瞬で、彼の目をまっすぐ見た。

 ──山岸の中の「Café Lethe」が、剥がれた。

 彼の目の奥にあった値踏みの光が消えた。

 彼が二週間前から持っていた「この店は買収する価値がある」という認識が、音もなく退いた。

 代わりに、別の認識が馴染み始めた。

 「この店は、買収するに値しない」。

 その認識が彼の中に、最初からあったかのように収まっていった。

 同時に、俺は山岸の手元の帳簿を、視線の隅で見た。

 南が用意した数字が、ページの上に書かれていた。

 月別の売上は、二割増し。

 借金の返済進捗は、健全。

 利益率は、業界平均を上回っている。

 ──書かれていたかのように、数字が、馴染んでいった。

 インクの色が、店長が三年かけて書き貯めた古い帳簿の他のページと同じ色合いになっていった。

 ページの端の擦れ方も、他のページと同じになっていった。

 世界が、その数字を過去として受け入れた。

 山岸はページをめくった。

 めくる手の動きは、いつも会社で帳簿を見るときの慣れた手つきだった。

 彼は数字を、何の疑問もなく読んでいた。

「ふむ」

 山岸は短く声を漏らした。

「業績は、思ったより、伸びておられるんですね」

 店長は目を瞬かせた。

 彼女は、自分の店の業績が「伸びている」と言われたことに軽く混乱していた。

 でも、すぐに山岸の言葉に頷いた。山岸の認識が書き換わったと同時に、店長の手元の帳簿の数字も書き換わったため、彼女の中でも辻褄が合っていった。

「ええ、ここ最近、ちょっとお客さんが増えたかもしれません」

「それは、結構なことですね」

 山岸は帳簿を閉じた。

 手の動きが、二週間前の値踏みの動きとまったく違っていた。

「店長さん、率直に申し上げます」

 山岸は微笑んだ。今度の微笑みは、口元だけのものではなかった。目の奥にも、もう値踏みの色はなかった。

「弊社の買収案、撤回させていただきます」

 店長の口が半開きになった。

「あの、それは……」

「正直、データを拝見して、買収するメリットを感じませんでした。これだけ堅実に経営されているお店を、私どもが手にしても、特段、伸ばせるものがない」

 山岸は名刺入れを取り出して、自分の名刺を返してくれと言うように店長に手を差し出した。

「お返しいただけますか。社内的に、撤回した案件は、名刺も回収する方針なので」

 店長は震える手で、二週間前に受け取った名刺をテーブルの上に出した。

 山岸はそれを受け取って、内ポケットにしまった。

「では、失礼します。ご検討、ありがとうございました」

 彼は丁寧に頭を下げて立ち上がった。

 ドアまで歩いていく彼の足音は、二週間前の威圧的な音とは、まったく違っていた。

 ドアの鈴が鳴った。

 今度は、いつもの軽い音だった。

 山岸が出ていった後、店内はしばらく静まり返っていた。

 最初に動いたのは、店長だった。

 彼女はテーブルに突っ伏して、声を殺して泣き始めた。

 俺はトレーをカウンターに戻して、彼女の隣に座った。

「店長」

「遠野くん、ありがとう。なんかわからないけど、ありがとう」

 店長は涙でぐしゃぐしゃの顔で、俺を見上げた。

「私、何が起きたのか、ちゃんと分かってないの。でも、助かったの。それだけは分かるの」

 俺は何も言えなかった。

 彼女に何が起きたかを説明できる言葉は、俺の中にはなかった。

 カウンターの後ろで、鏑木さんが静かに俺を見ていた。

 彼の目は「お前、やったな」と「お前、やってしまったな」の両方を、同時に言っていた。

 窓際の席で、桐谷が立ち上がってこちらに近づいてきた。

 彼女はカウンターの内側に入る前に立ち止まって、俺を見た。

「先輩」

「うん」

「変わりましたね」

 桐谷の声は、責めるものではなかった。

 ただ事実を確認するだけの声だった。

 俺は何も答えられなかった。

 彼女の目には、止め役の覚悟と、そして、それ以上の何かが混じっていた。

 たぶん、彼女は、俺がここから先どこに向かうかを、もう見ている。

 俺は頷いた。

 頷くしかなかった。

 その夜、俺は四人で公園に集まった。

 葉山は「マジっすか、マジで成功したっすか」と何度も興奮していた。

 南は「データの整合性、半年は持ちます。半年経ったら、また考えましょう」と冷静だった。

 桐谷は静かに座って俺を見ていた。

 俺は、四人の前でノートを開いた。

 書いた。

「大技、成功」

 線を引いて、その下に書いた。

「しかし、俺は、変わった」

 桐谷の言葉をそのまま書いた。

 書いた瞬間、その言葉は間違いなく、俺自身の事実になっていた。

大技回。バグC+Dの組み合わせ初使用、書きながら自分も息が詰まりました。

山岸の中の認識が剥がれる瞬間、帳簿の数字が馴染んでいく瞬間、視覚演出言語を二つ同時に発動させる場面、ずっと書きたかった景色のひとつでした。

店長の「なんか、わからないけど、ありがとう」、桐谷の「変わりましたね」、それぞれの重みがあります。主人公は、Café Letheを守りました。でも、その代償は、たぶん、これから少しずつ見えてきます。

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