俺は、組み合わせる
翌朝、目が覚めて最初に思ったのは、「あと十日だ」だった。
山岸が二週間後に来ると言って帰ってから、四日が過ぎていた。
残された時間は十日。
その間に、店を守る方法を見つけて磨いて実行しなければならない。
布団の中で、俺はもう一度、目を閉じた。閉じても、頭の中の時計の音は止まらなかった。
俺はノートを開いて、書いた。
「目的:山岸の買収を断念させる。Café Letheを守る」
線を引いて、その下に書いた。
「手段の候補:バグC、バグD、両方の組み合わせ」
バグC単体で考えてみた。
山岸の「買収する」という意志を、書き換えられるか。彼の頭の中で「Café Letheは買収するに足る店だ」という認識が「やめておこう」に書き換われば、買収は止まる。
でも、それだけでは弱い。山岸は会社の人間だ。彼一人の認識を書き換えても、グランデ・コーヒーが他の人間を寄越せば、また同じ話が来る。
バグD単体で考えてみた。
Café Letheの帳簿を「健全な経営状態」に書き換える。山岸が見せられた帳簿に「業績は伸びている」「借金はほぼない」と書かれていれば、買収のうま味はない。
でも、それだけでも弱い。山岸は会社の調査員に裏を取らせる。書き換えた帳簿だけでは、いずれ嘘がバレる。
組み合わせるしかない、と思った。
バグCで山岸の認識そのものを書き換える。同時に、バグDで帳簿を書き換えて彼の認識を補強する根拠を作る。両方の手で、彼の判断を完全に切り替えさせる。
午後、Café Letheでバイトに入った。
俺は鏑木さんに、人がいないタイミングを見計らって、声をかけた。
「鏑木さん、ちょっと、相談したいことが」
「ん」
「店長の帳簿、ここ三年分くらい見られませんか」
鏑木さんは少しだけ目を細めた。
「何のために」
「数字を確認したいんです」
鏑木さんはしばらく黙った。それから、ゆっくり頷いた。
「分かった。今夜、シフトが終わったら見せる。店長には、俺から話を通しておく」
「ありがとうございます」
「店長を巻き込まない範囲で、頼むぞ」
「分かってます」
鏑木さんはそれ以上、何も訊かなかった。
夜、シフトが終わった後、鏑木さんは事務所のキャビネットから三冊のファイルを出してきた。
ここ三年分の帳簿だった。
手書きと印刷が混在した古い形式のものだった。
俺は黙ってページをめくった。
月別の売上、仕入れ、人件費、家賃、光熱費、利益。
数字を見て、現実が見えた。
ここ二年で利益は緩やかに減っていた。
借金の利息支払いが、毎月、利益を削っていた。
あと一年から二年で、店は本当に潰れる。
山岸の言葉は嘘ではなかった。
俺はノートに、いくつか数字を書き写した。
南にデータ処理を頼むためだった。
帰り際、鏑木さんが俺の肩を叩いた。
「遠野」
「はい」
「無理はするな」
「分かってます」
「もう一つ」
鏑木さんは少し声を落とした。
「俺は、お前の側だ。でも、お前の能力の側じゃない」
俺はその言葉の意味を、しばらく考えた。
鏑木さんは俺を支える側にいる。
でも、俺の能力には距離を取っている。
その距離が、彼が見守り役である理由なのかもしれなかった。
翌日、四人で公園に集まった。
南がノートパソコンを開いて、俺が写した数字を入力していった。
葉山は何度も「マジっすか」を繰り返していた。
桐谷は腕を組んで黙っていた。
「先輩、この帳簿、どう書き換えるんですか」
南が訊いた。
「業績が伸びているように見せる。具体的には、月別の売上を二割増しに、借金の利息支払いをゼロに」
「数字としては作れます。でも、税務署に提出されている確定申告との整合は」
「そこは書き換えない。山岸が見るのは、店長の手元の帳簿だけだ。確定申告書類までは見ない」
「リスクはあります。山岸が会社に持ち帰って、税務署のデータと照合したら、矛盾が出ます」
「だから、バグCで認識自体を書き換える。山岸の頭の中で『この店は買収する価値がない』と確信させる。確信があれば、彼は会社に詳しい報告すらしない」
南は黙ってメモを取った。
桐谷が、ようやく口を開いた。
「先輩、本当に、これでいいんですか」
桐谷の声は静かだった。
「何が」
「人の認識を、二人分、書き換えるんですよ。それも、一人は会社の意思決定に関わる人間です。先輩が今までやってきたのは、店員とか教授とか個人の単位でした。今度は、組織の意思決定を一人の人間を通して書き換えようとしてます」
俺は黙った。
桐谷の言うことは、正しかった。
今までは自分のため、あるいは店員一人の小さな迷惑のため、能力を使ってきた。
今度は、組織の決定を一人の認識操作で、止めようとしている。
それは、能力の使い方として、確実に一段階、踏み込んでいる。
「分かってる」
俺は答えた。
「でも、店を守る方法は、これしかない」
「他の方法は、考えましたか」
「考えた。でも、店長の借金の額と山岸の本気度を考えると、合法的に止められる時間はもうない」
「……」
桐谷は、しばらく俺の目を見ていた。
それから、ゆっくり頷いた。
「分かりました。私は、止めません。でも、覚えておいてください」
「何を」
「先輩は、今、変わり始めてます」
桐谷の言葉が、薄く胸に刺さった。
俺は何も答えなかった。
葉山が口を開いた。
「先輩、俺、何をやればいいんすか」
「お前は、当日、店の外で待機してくれ。山岸が来たら、南に連絡。山岸が出ていったらまた連絡。俺の合図が必要なときは、ガラス越しに見える位置にいてくれ」
「了解っす」
「南は、俺たちが書き換える数字を事前に決めておいてくれ。月別の売上、利益、借金返済進捗。山岸が見て『買収する価値がない』と判断する数字を」
「分かりました。明日までにシナリオを作ります」
「桐谷は」
俺は桐谷の方を見た。
「店内に来てほしい。客として。俺の近くで、俺を見ていてほしい」
桐谷はわずかに首を傾げた。
「私が、何の役に立つんですか」
「お前だけが、書き換えに応じない人間だ。俺がやり過ぎたとき、お前が俺を止めてくれ」
桐谷は、しばらく黙ってから、頷いた。
「分かりました。私が、先輩を見ます」
集まりが解散したのは、夜の十時を過ぎていた。
四人で駅まで歩いた。
葉山は元気に喋っていた。南は黙って歩いていた。桐谷は俺の少し後ろを歩いていた。
駅の改札で、別れた。
桐谷は俺の方を一度振り返って、何も言わずにホームに上がっていった。
部屋に戻って、俺はノートを開いた。
書いた。
「明日から、シミュレーションを始める」
「想定:山岸再来店、午後五時前後」
「主人公位置:カウンター内、店長の応対が始まったらテーブル接近」
「タイミング:店長と山岸の会話の中盤、注文の追加を出すタイミング」
「組み合わせ:バグC(山岸の認識)+バグD(帳簿の数値)」
「決め台詞:『お前の中の店を、書き換える』」
最後の一行を、俺はもう一度なぞった。
決め台詞は、自然と浮かんできた。
誰に教えられたわけでもないのに、口の中で形になっていった。
たぶん、それは、俺の能力が俺自身を呼び始めている兆候だった。
桐谷の「変わり始めてます」という言葉が、もう一度、頭の中に響いた。
俺はノートを閉じた。
あと九日。
店を守るための作戦立案回。バグC+Dの組み合わせ、書きながら自分も「ここまでやるのか」と思いました。
桐谷の「先輩は、今、変わり始めてます」、これは止め役の彼女だからこその言葉です。書き手としては、主人公が能力に少しずつ侵食されていく予感をここから積み上げていきたいと思っています。
鏑木さんの「俺は、お前の側だ。でも、お前の能力の側じゃない」も、彼の立ち位置を象徴する一行になりました。次回、いよいよ山岸が再来店します。




