佐伯さん、見つけた
翌朝、シャワーを浴びながら、二つのことを考えていた。
一つは、Café Letheをどう守るか。
もう一つは、佐伯先輩のこと。
二つは別の話のように見えて、たぶん繋がっている。
俺が能力を使うなら、その能力の正体をできるだけ早く知っておきたかった。佐伯先輩はたぶん、答えの一部を持っている。
桐谷にLINEを送った。
「今日の夕方、ちょっと付き合ってほしい場所がある」
桐谷からの返信はすぐに来た。
「いいですよ。どこですか」
「都心のカフェ。サークルOBの先輩を訪ねる」
「了解です」
桐谷はそれ以上は何も訊かなかった。
彼女の聞かない優しさは、いつも助かった。
夕方、新宿の駅で桐谷と待ち合わせた。
桐谷は時間ぴったりに来た。茶色のコートを着ていた。あの日Café Letheに来たクレーム客の女性のコートと似た色だった。でも、桐谷の方が生地がしっかりしていた。
駅前のロータリーは、夕方のラッシュで人が多かった。たくさんの人がそれぞれの方向に歩いていた。誰も俺たちを見ていない。誰も俺たちが何を話しに行くか知らない。それが、いつもより、奇妙に心強かった。
「先輩、何の話ですか」
歩きながら桐谷が訊いた。
「佐伯先輩のこと、覚えてる?」
「覚えてます。先週、カフェで先輩から聞きました」
「うん。今日、別のOBにもう少し詳しく訊きたい。前のOBは、卒業後の佐伯先輩について、ほとんど何も知らなかった。今日のOBは、佐伯先輩と特に親しかった人だ」
桐谷は頷いた。
「私、行ってもいいんですか」
「いてくれた方がいい。お前は効かない人間だから」
桐谷は少しだけ笑った。
その笑い方は、昨日までの彼女より少しだけ柔らかかった。
待ち合わせのカフェは、駅から五分の場所にあった。
古いビルの三階。階段で上がる小さな店だった。
OBはもう来ていた。
二個上の先輩。社会人三年目。広告代理店で働いている男だった。サークル時代から、佐伯先輩と特に親しかった人だ。
「久しぶり、遠野」
OBは俺を見て笑った。
桐谷を見て、目を一瞬大きくした。
「あれ、桐谷さんだっけ。久しぶり」
「お久しぶりです」
桐谷は丁寧に頭を下げた。
俺たちは、OBの向かいの席に座った。
「で、急にどうしたの。佐伯のこと、訊きたいって」
OBは率直だった。
「最近、ちょっと気になることがあって」
俺はそう切り出した。
「佐伯先輩、卒業後どうしてるか知ってますか」
OBはコーヒーを一口飲んでから、答えた。
「うーん、俺もよくは知らない。卒業半年前から、急に距離取り始めたんだ、あいつ。連絡もほぼ取れなくなった」
「会社、決まってましたよね、卒業の頃」
「ああ、決まってた。たしか、なんとか研究所だった気がする」
「研究所」
俺は息を呑んだ。
桐谷もわずかに俺を見た。
「研究所って、どんな研究所ですか」
「それが、よく分かんないんだよ。本人は『心理学関連の研究所』って言ってた。でも、心理学の研究所で、一般募集とかするか? 俺、知らないけど」
OBは肩をすくめた。
「最近、佐伯先輩を見かけたという話、聞きませんか」
俺はもう一段、踏み込んで訊いた。
OBは少し考えてから、答えた。
「あー、そういえば、先月、サークルの別のOBから連絡が来た。あいつ、文京区で見かけたって」
「文京区」
「うん。本郷の方らしい。何か白い建物に入っていくところを見たって、そのOBは言ってた」
「白い建物」
「うん。詳しくは聞いてない。でも、たしかに本郷のあたりで見たって」
俺はノートを取り出して、メモした。
文京区。本郷。白い建物。
手がかりはまだ薄い。
でも、ゼロではなかった。
「もう一つ、訊いていい?」
「ああ」
「佐伯先輩、サークルにいた頃、何か変な様子なかったですか。普通の先輩と違う、みたいな」
OBはしばらく黙った。
桐谷が俺の隣で、静かに息を吐いた。
彼女は俺がこの質問に踏み込むことを、たぶん予測していた。
「あったよ」
OBはゆっくり答えた。
「あいつ、たまに変なこと言ってた。『俺たちが見てる世界は、本当の世界じゃないかもしれない』って。最初は冗談だと思ってたけど、卒業前は本気で言ってる気がした」
俺は息を呑んだ。
桐谷の手がテーブルの上でほんの少しだけ動いた。
「他に、変なこと、言ってませんでしたか」
「うーん、覚えてるのは、それくらいかな。あ、もう一つあった。あいつ、俺たちサークルメンバーの中で、お前のことだけ、ちょっと違う目で見てた」
「俺のこと?」
「うん。お前を観察してる感じ。不気味なくらい。お前が嫌いだったわけじゃなくて、なんかお前のことを『観察対象』みたいに見てた」
俺は何も答えられなかった。
桐谷が、俺の隣で、テーブルの下で軽く俺の腕に触れた。
大丈夫、という意味だった。
OBとの会話は、その後、雑談に流れた。
俺たちは三十分ほど話してから店を出た。
別れ際、OBは俺の肩を軽く叩いて「あいつに会えたら、よろしく言っといてくれ」と笑った。
俺は頷いて桐谷と一緒に駅に向かった。
駅前で、桐谷が口を開いた。
「先輩、文京区、行くんですか」
「うん。たぶん近いうちに」
「私も、ついていきます」
桐谷は迷わず言った。
「いや、これは俺一人で」
「ダメです」
桐谷は俺の目を見て、はっきり言った。
「先輩は止め役が必要です。佐伯先輩に会って何かを知ったら、先輩はたぶん暴走します。そのとき、私がいないとダメです」
俺はしばらく言葉を失った。
彼女の言うことは、正しかった。
俺は大事なことを知るたびに能力を使う方向に踏み込もうとする。
桐谷だけが、それを止められる。
「分かった」
俺は答えた。
「一緒に、行く」
桐谷は頷いた。
駅のホームに上がる階段で、彼女は少しだけ俺の前を歩いていた。
階段の手すりに、夕方の街の匂いが残っていた。コーヒーの匂いと、誰かの香水と、線路のオイルの匂いが混じった、新宿独特の匂いだった。
その背中を見ながら、俺はもう一度、ノートのメモを思い出した。
文京区。本郷。白い建物。
佐伯先輩は、そこにいる。
たぶん、もうすぐ、会える。
佐伯先輩の現実世界での位置情報の最初のヒント、書きながら自分も「ようやく見えてきた」感覚でした。
OBの「俺たちが見てる世界は、本当の世界じゃないかもしれない」、サークル時代の佐伯先輩がすでに辿り着いていた認識の片鱗。これは第一部から張ってきたα-3の伏線が、ここで意味を持って動き始める瞬間です。
桐谷の「ダメです」、彼女の止め役としての覚悟も、一段固くなりました。次回、店を守るための作戦が動き出します。




