カフェに、影が差す
翌日、俺は四人でCafé Letheの近くの公園に集まった。
昨日のバグDの発見を、共有する必要があった。
南は録画データの追加分析を持ってきた。葉山は何度も「マジっすか」と確認していた。桐谷は静かに俺の話を聞いていた。
「世界は、書かれた通りになる、ですね」
南は決め台詞をそのままノートに書き留めていた。
「これ、応用範囲がすごく広いですよ。先輩、何でも書き換えられるんじゃないですか」
「分かってる。だから、慎重に使わないといけない」
俺は答えた。
桐谷は黙って頷いた。
彼女は、書き換えに応じない人間として、いちばん俺の暴走を警戒していた。
それでいい。それが彼女の役割だ。
集まりが解散した後、俺はバイトに向かった。
午後四時、Café Letheに入って、エプロンをつけた。
いつもの平和な午後だった。
常連のおじいさんが新聞を広げていた。スーツのサラリーマンがコーヒーを買って帰っていった。学生らしい二人組が窓際で笑っていた。
俺はカウンターでオーダーを取りながら、頭の中でバグDの応用例を考えていた。
使わない練習。それを、しないといけない。
あれだけ強力なバグだ。日常の小さな不便のたびに使い始めたら、俺はすぐに人間ではなくなる。
午後五時頃、店のドアの鈴がいつもと違う音で鳴った。
いつもは客が入ってくる時、鈴の音は軽い。
今日のそれは、なぜか重い音に聞こえた。
顔を上げた。
見慣れない男が立っていた。
四十代くらい。背の高いスーツの男。髪はきれいに撫でつけてある。靴が、明らかに高そうだった。
男は店内を一度ゆっくり見渡してから、カウンターに近づいてきた。
「すみません、店長さんはいらっしゃいますか」
声は丁寧だった。だが、丁寧の中に、何かが混じっていた。
俺は店長を呼びに行った。
店長は厨房から出てきて、男の前に立った。
男は内ポケットから名刺入れを取り出して、名刺を一枚、店長に差し出した。
「グランデ・コーヒーの山岸と申します」
店長の手が、名刺を受け取った瞬間、ほんの少しだけ震えた。
俺はカウンターの内側で、その様子を見ていた。
山岸は笑顔だった。
でも、その笑顔は口元だけで作られていた。目は、店内の備品の一つひとつを値踏みするように動いていた。
「お時間、少しよろしいでしょうか。少しお話ししたいことがあります」
店長は店内の客の方を見て、頷いた。
「あ、はい。奥のテーブルへどうぞ」
二人は奥の四人席に移動した。
俺はカウンターから、彼らの姿を遠目に見ていた。
会話は聞こえなかった。
でも、店長の表情は、見ていれば分かった。
最初は普通の応対の顔。
徐々に困った顔。
最後の方は、青ざめた顔。
山岸はずっと笑顔のままだった。
二十分ほどで、山岸は席を立った。
店長と一緒にドアまで歩いてきた。
「では、また二週間後に。考えておいてください」
山岸は穏やかな声で言った。
「お返事、期待しています」
ドアの鈴が、また重い音で鳴った。
山岸が出ていった後、店内は急に静かになった。
店長は俺の前を通り過ぎて、厨房に入った。
俺はオーダーを取り終えてから、厨房に入った。
鏑木さんも来ていた。
店長は、シンクの前で立ち尽くしていた。
名刺をまだ手に持ったままだった。
「店長」
俺は声をかけた。
店長は俺を見た。
「ごめんね、なんでもないの」
店長は微笑もうとして、失敗した。
名刺の文字が俺の位置からも見えた。
「企画部長 山岸 義仁」と書いてあった。
鏑木さんが、ゆっくり口を開いた。
「グランデ・コーヒーが、買収の話を持ってきたんですか」
店長は頷いた。
俺は息を呑んだ。
鏑木さんは知っていた。
いや、正確には、こういうことが起きる可能性を予測していた。
「店長、買い取り価格は?」
鏑木さんは静かに訊いた。
店長はしばらく黙ってから、口を開いた。
「四千万」
「Café Letheの土地と建物、含めて?」
「ええ」
鏑木さんは息を吐いた。
「相場の半分以下ですね」
「うん」
店長は目を伏せた。
「でも、断れない。私、この店のために結構、借金してるの。今のままだと二年以内に自然に潰れる。山岸さんは、それを知ってて来てる」
俺は何も言えなかった。
店長の顔は、すでに何かを諦めかけていた。
でも、その諦めの中に、まだ、わずかに、希望が残っていた。
鏑木さんは俺の方を見た。
「遠野」
名前を呼ばれた。
「お前、何か考えてないか」
鏑木さんの目は真剣だった。
俺は、しばらく考えてから答えた。
「考えてます。たぶん、店を、守れます」
店長が、顔を上げた。
俺の目を、まっすぐ見た。
「遠野くん、何を、考えてるの」
「まだ、言えません。でも、二週間あれば、何とかします」
店長は、何も言わなかった。
ただ、目に涙が薄く滲んでいた。
俺は、頭を下げて、カウンターに戻った。
心臓が、ふつふつと、燃え始めていた。
俺は、初めて、能力を、誰かを守るために使うつもりになっていた。
今までは、自分のために使ってきた。コンビニ店員、教授、サークル仲間。書き換えの目的は、自分の都合の改善だった。
今度は違う。
店長を救う。
Café Letheを守る。
その動機はたぶん正しい。
でも、その「正しい動機」こそが、いちばん危険なのかもしれなかった。
誰かを救うためなら何をしてもいい、という考えに踏み込みかけている自分が見えた。
敵キャラ・山岸義仁の初登場回。書きながら、俺もカフェの空気が冷たくなる感覚を味わいました。
丁寧な笑顔で、目だけが値踏みしている男。重い鈴の音、店長の震える手、青ざめていく顔。派手化方針の「明示的な敵」の最初の本格的な姿です。
そして、主人公が初めて「能力を守るために使う」動機を持った瞬間。次回、佐伯先輩の手がかりに少しだけ近づきます。




