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桐谷が、誰かと話していた

 大技から五日が過ぎていた。

 Café Letheは、いつも通りの営業を続けていた。

 店長は時々、不思議そうに帳簿を見つめていた。彼女の中では「業績は伸びている」という認識が定着しているが、目の前の現実の客足とは、わずかにずれていた。そのずれを、彼女はうまく言葉にできずに、ただ首を傾げていた。

 俺はそれを見るたびに、胸の奥で薄く何かが痛んだ。

 救うことと書き換えることは、たぶん別のことだった。彼女は救われたかもしれない。でも、彼女の中の何かを、俺は確実に書き換えた。書き換えた先の彼女は、書き換える前の彼女と本当に同じ人間だろうか。

 俺はその問いを、毎晩、押し戻していた。

 でも、彼女は救われた。それだけは事実だった。

 大学の講義は、いつも通り進んでいた。

 俺は普通の学生に戻った。少なくとも表面上は。

 戦闘ユニットの四人とは、毎日のようにLINEでやり取りしていた。葉山は「次は何やるんすか」と毎日訊いてきた。南は「データの追跡を継続中です」と冷静だった。桐谷は必要なときだけ短く返信した。

 平和な日常だった。

 でも、心のどこかで、俺は何かが起きるのを待っていた。

 その日の午後、俺は二限の講義が終わって構内を歩いていた。

 次の講義まで一時間ある。

 学食で昼を取るか、それとも図書館で時間を潰すか、迷っていた。

 銀杏並木の通りを歩きながら、何気なく顔を上げた。

 秋の終わりの午後の陽が、葉の隙間からまだら模様を作って地面に落ちていた。落ち葉の半分は黄色、半分は黄緑だった。風が吹くたびに、足元で乾いた音がした。

 その時、ベンチで話している二人が、目に入った。

 一人は、桐谷だった。

 もう一人は、見知らぬ女性だった。

 距離は二十メートルほどあった。

 俺はとっさに足を止めて、銀杏の木の陰に身体を寄せた。声をかけるかどうか迷う前に、足が止まっていた。

 桐谷の表情が、いつもと違っていた。

 彼女の目は、相手の女性をまっすぐ見ていた。背筋がいつもより伸びていた。手はテーブルの上で軽く握られていた。

 俺は桐谷のあんな表情を、見たことがなかった。

 俺の前で彼女が見せる顔ではなかった。

 もっと、何かを「決めている」顔だった。

 女性の方は、顔が見えなかった。背中をこちらに向けていた。

 肩までの黒髪。グレーのジャケット。三十代くらいに見えた。

 彼女の話す内容は聞こえなかった。声のトーンが、ときどき風に乗って薄く届いた。落ち着いた声だった。

 桐谷が小さく頷いた。

 女性が短く何か言った。

 桐谷がもう一度、頷いた。

 それから、二人は何分か、黙っていた。

 二人とも、ただ同じ場所を見ていた。

 俺はその場を離れた。

 声をかけることは、できなかった。

 なぜできなかったのか、自分でもよく分からなかった。

 ただ、桐谷のあの表情を、近距離で見たくなかった。

 彼女が俺の知らない誰かの前で、俺の知らない顔をしている瞬間に俺が踏み込むのは、たぶんまだ早い。

 図書館で、俺はノートを広げた。

 でも、何も書けなかった。

 代わりに、スマホを開いて桐谷にLINEを送った。

「さっき、誰と話してた? 銀杏並木のところ」

 既読がついた。

 返信は、十分後に来た。

「ちょっと知り合い」

 それだけだった。

 俺は次の言葉を打ちかけて、消した。

 訊いても、彼女は答えない気がした。

 訊くべきタイミングは、たぶん別にある。

 夜、シフトに入った。

 いつものように接客をしながら、俺は頭の片隅で銀杏並木のシーンを反芻していた。

 桐谷の表情。背筋の伸び方。テーブルの上の手の握り方。

 彼女は俺が知らない場所で俺が知らない種類の話をしていた。

 桐谷は俺の止め役だ。

 でも、彼女自身が何を背負っているのか、俺はまだほとんど知らなかった。

 鏑木さんが厨房から出てきて、俺の隣を通りすぎる時、短く言った。

「お前、今日、ぼうっとしてるな」

「すみません」

「何かあったか」

「いや、何も」

 鏑木さんは、それ以上は何も訊かなかった。

 でも、彼の視線はいつもより少しだけ長かった。

 帰り道、駅のホームで、俺はもう一度スマホを見た。

 桐谷からの返信は「ちょっと知り合い」のままだった。

 俺はノートを開いて、書いた。

「桐谷の知り合い。三十代くらいの女性。グレーのジャケット。場所、銀杏並木」

 書いてみると、情報の少なさに、自分でも笑いそうになった。

 でも、書かないよりはましだった。

 帰宅して、ベッドに倒れ込んだ。

 明日もいつも通りの日々が続くはずだった。

 でも、俺は何かが始まろうとしている予感を、はっきりと、胸の奥で感じていた。

大技から数日後の、平穏に見える日常回。

銀杏並木のベンチで桐谷と知らない女性が話している場面、書きながら主人公と一緒に「踏み込めない」感覚を味わいました。彼女の知らない顔を遠くから見る、あの距離感を文字にしたかった場面です。

桐谷の「ちょっと知り合い」、たった一言の返信が、ここからの物語の入り口になります。

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