言葉が、剥がす
翌朝、目が覚めて最初に思ったのは、昨日の決意の続きだった。
今日も世界を試す。
ただし、昨日と違うのは、もう一人ではないという感覚だった。鏑木さんは何かを知っている。桐谷は何かを察している。俺は完全に孤立しているわけではない。
ベッドから起き上がっていつもの朝の準備をした。
今日のバイトは午後三時から。昼まで大学に行って講義を二つ受けた。教授の話を聞きながら、頭の隅では別のことを考えていた。
バグA。俺の言葉が世界に過剰に効く。
バグB。俺は人の行動を最初から知っている。
もし世界がRPGだとしたら、他にもバグがあるはずだ。
二つで終わるはずがない。
午後三時、Café Letheに入った。
いつもの厨房で、エプロンをつけた。
鏑木さんはレジの内側で、伝票を整理していた。俺と目が合うと、軽く頷いた。それ以上は何も言わなかった。
いつものシフトだった。
午後五時頃、店が混み始めた。
俺はカウンターでオーダーを取っていた。
その時、店の奥で女性の客が店長に怒鳴っていた。
四十代くらいの女性。常連ではない。たぶん今日が初めての来店だ。茶色いコートを椅子の背にかけ、テーブルの上で開いたスマホの画面が何度も光っていた。たぶん、誰かにメッセージを送りながら待っていてその上で怒っていた。誰かに見せるために怒っているような、そんな種類の声だった。
「だから、注文と違うって言ってるでしょう」
女性の声は、カウンターまで届いていた。
店長が困った顔で、何度も頭を下げていた。
他の客たちが、ちらちらと視線を送っていた。
俺はオーダーを取り終えてから、店長に近づいた。
「店長、代わりますよ」
店長は俺を見て申し訳なさそうに頷いた。
俺は女性の席に向かった。
「お客様、申し訳ございません」
俺は丁寧に頭を下げた。
女性は俺を睨んだ。
「あんた、責任者?」
「いえ、バイトです。でも、店長は今、別件で立て込んでいるので」
女性は俺を見上げて口を開きかけた。
その時、俺の口が勝手に動いた。
「あの、これ、たぶん勘違いだと思うんです」
言葉を選んだつもりはなかった。
ただ、口が動いた。
──女性の表情から、何かが、剥がれた。
昨日までの怒りが、まるで他人の感情だったように彼女の顔から音もなく退いていった。
目の焦点が一瞬だけ合わなくなった。
次の瞬間、女性の目が、また合った。
「あ、いや。そう、たぶん勘違いね」
女性は自分の言葉に少し驚いた顔をした。
「ごめんなさい、なんだか、頭が混乱してて」
女性は財布を出して注文の代金を払った。
席を立って、店を出ていった。
ドアの鈴の音が、いつもの音と変わらず鳴った。
俺はその場に立ち尽くしていた。
たった今、何かが起きた。
でも、何が起きたのかは、まだ言葉にできなかった。
厨房に戻ると、店長が「ありがとう、助かった」と言った。
鏑木さんは、何も言わずに俺を見ていた。
目が合った。
鏑木さんの視線は、いつもより少し長かった。彼は普段、長く誰かを見るタイプではない。視線を合わせて、目で頷いて、すぐに次の作業に戻る。今日は、その「次の作業」に戻るまでの時間が、いつもの三倍は長かった。
でも、何も言わなかった。
俺はうなずいて、カウンターに戻った。
シフトが終わって、家に帰った。
部屋に入って、ノートを開いた。
手が、震えていた。
書きたいことを、書いた。
「バグC:会話の再描画」
線を引いて、その下に書いた。
「特定の言葉を選んで発すると、相手の記憶や感情が、リセットされる」
もう一度、線を引いた。
「俺は、相手の中の『俺』を、書き換えた」
ペンを置いて、俺は天井を見上げた。
怖かった。
バグA・Bは世界の側が俺に都合よく動いてくれる現象だった。
でも、バグCは違う。
俺が、相手の頭の中を直接操作した。
それはもっと根本的に何かが違う行為だった。
明日、もう一度試す。
怖いから確かめないといけない。
偶然じゃなくて、本当に再現できる現象なのか。
第二部、ついにスタートです。
バグC「会話の再描画」、書きながら自分でも背筋が冷えました。バグA・Bが「世界が動く」現象だったのに対して、バグCは「相手の頭を直接書き換える」。一線を越える瞬間です。
鏑木さんの長い視線、何かを知っている人間の沈黙。次回、主人公はもう一度試します。




