俺は、書き換える
翌朝、目が覚めて最初にしたのはノートを開くことだった。
昨日のバグC発見の記録が、確かにそこにあった。書きたかったから書いた。だが今朝、寝起きの頭で読み返すと、自分の字が他人の字のように見えた。
「俺は、相手の中の『俺』を、書き換えた」
その一行が文字として残っていることが、いちばん怖かった。
偶然だったのか、本物だったのか。
今日、確かめないといけない。
大学に行く途中、駅前のコンビニに立ち寄った。
ペットボトルの茶を選んでレジに持っていった。
昨日と同じ若い店員だった。研修中のシールはまだ胸についている。
「これ、今日もいいですよね」
俺はいつもなら言わない一言を口にした。
いや、本当は別の言葉を準備していた。
でも、口が勝手に違う言葉を選んだ。
「あ、はい」
店員はバーコードを読み取りながら答えた。
俺は次の言葉を続けた。
「昨日、ここでお茶買ったの、覚えてます?」
「え、ええと」
店員の目が少しだけ泳いだ。
俺はそのまま、もう一段、踏み込んだ。
「俺、昨日も来てたんですけど、別の人にお会計してもらった気がします」
言葉を吐いた瞬間、店員の表情がふっと止まった。
──彼の顔から、昨日の俺の記憶が、剥がれた。
俺はそれを文字通り見ていた。
目の奥にあった「あ、この人昨日来た」という小さな認識の光が、消えた。
「ですよね、私、昨日休みでしたもんね」
店員は嘘を信じて嘘を返した。
会計が終わった。
俺は店を出た。
胸の奥で、何かが薄く笑った。
怖さと興奮と優越感と、それから嫌悪が混じり合っていた。
ノートに書いた。
「実験:成功。バグC、再現可能」
二限の講義の後、教授に呼び止められた。
先週、提出を忘れていたレポートがあった。
昨日まで、どう言い訳しようか考えていた。
今日は、別の選択肢があった。
「先生、すみません。先週提出したレポートのことなんですけど」
俺は教授の顔を見た。
教授は六十代の男性で、温厚だが厳しい採点で知られていた。眼鏡の奥の目が、いつも少しだけ笑っているように見える。学生に対して優しいと評判だが、その優しさは「採点では決して甘くしない」という前提の上に成り立っていた。
「ああ、君、先週のあれね」
「はい。先生、たしかその時、受け取ってくださいましたよね」
教授の目がほんの一瞬、合わなくなった。
──教授の中の「未提出」が、剥がれた。
「ああ、そうだったね。確認しておくよ」
教授は何事もなかったように頷いた。
俺は頭を下げて、その場を離れた。
廊下を歩きながら、俺は震えていた。
手のひらに汗が滲んでいた。
心臓の音が、自分の胸の中で大きく響いていた。
午後の廊下は静かで、遠くで誰かが講義室の扉を閉める音だけが聞こえた。すれ違う学生たちは誰も俺の異変に気づかなかった。気づくはずがない。俺は何も外見上は変わっていない。ただ、世界の事実を一つだけ書き換えただけだ。
俺は世界を書き換えた。
提出していないレポートを「提出した」ことにした。
倫理的に、これは正しいのか。
いや、倫理の話ではない。これはもっと根本的な話だ。
俺は、世界の事実を自分の都合で改竄した。
それができることが分かった。
部屋に戻って、ノートに書いた。
書きながら、独り言が口から漏れた。
「お前の中の俺を、書き換える」
声に出してみると、それは決め台詞のように聞こえた。
俺は笑いそうになった。
誰に向けて言ったわけでもない言葉が、勝手に決め台詞めいて聞こえる。
仮説:この能力は繰り返し使えば、もっと精度が上がる。
仮説:この能力には、たぶん限界がある。すべての相手に効くわけではない。
仮説:この能力を使うと、たぶん何かがどこかに記録されている。
最後の仮説だけ、根拠はない。
ただ、なんとなくそう感じた。
ゲームのバグを使うと、ログに残る。たぶん、それと同じだ。
俺はノートを閉じた。
窓の外で、雀が一羽、鳴いた。
いつもの朝の音だった。
バグC検証回。コンビニ店員と教授に対しての二段階の試し、書きながら主人公と一緒に手のひらに汗をかいていました。
レポート未提出を「提出した」ことにする一線、倫理を踏み越える瞬間です。決め台詞「お前の中の俺を、書き換える」もここで初出。
ラストの「何かが、どこかに、記録されている」直感は、後の伏線に繋がっていきます。




