距離のある、先輩
翌日、俺は佐伯先輩について調べると決めた。
サークルの先輩で、去年卒業した。一個上だから接点はあったはずなのに、思い出せる具体的なエピソードが少ない。なぜか俺はあの人の前だけ緊張した。誰にでも好かれる俺が、あの人の前だけは空回りした。
もし世界が設計されているなら、佐伯先輩はその設計の例外だ。
例外を調べれば、設計の輪郭が見えるかもしれない。
まずは桐谷に連絡を取った。
彼女は俺と同じ時期にサークルに入って、佐伯先輩とも面識があったはずだ。
LINEで「ちょっと話したいことがある。今日の夕方、時間ある?」と送った。
既読がついて、すぐに返信が来た。
「いいですよ。どこに行きます?」
「大学の近くで、どこか静かなところ」
「じゃあ、駅の北口の方の、あの古いカフェで」
桐谷が指定したのは、Café Letheではなかった。学生街の外れにある別の店で地元の人が多い静かなカフェだった。
俺はそれでいいと返した。
夕方、待ち合わせの店に着いた。
桐谷はもう来ていて、窓際の席に座っていた。俺を見つけると、軽く手を挙げた。
近づいて、向かいの席に座った。
店内は古い木の匂いがした。窓の外で、街路樹の葉が薄暗くなり始めた光に揺れていた。客は俺たち以外に二、三組だけで、それぞれが小さく話している声と、奥からのコーヒーミルの音だけが店を満たしていた。
「先輩、最近大丈夫ですか」
桐谷は、いつものように少しだけ笑って訊いた。
「大丈夫」
俺は答えた。
「大丈夫って、それ、もう五回くらい聞きました」
桐谷は笑った。今度の笑いには責める色が薄く混じっていた。
「ごめん」
「謝らなくていいですけど。でも、先輩、本当に何かあるんですよね」
桐谷は俺を見ていた。視線を逸らさなかった。
俺はコーヒーが届くのを待ってから、口を開いた。
「佐伯先輩のこと、覚えてる?」
桐谷は少し首を傾げた。
「佐伯先輩……あ、去年卒業した、二年生の時の先輩ですよね」
「そう」
「覚えてますよ。でも、あんまり接点なかったかな。なんか、いつも一人でいた人」
「俺もそう思う。なんで、いつも一人でいたんだろう」
「うーん。なんでですかね。雰囲気が、ちょっと違ったから……かな」
桐谷は記憶を辿るような顔をした。
「他のOBとも違ったし、先輩——遠野先輩のことも、ちょっと冷たく見てた気がします」
「俺のこと?」
「他の人にはみんな笑顔だったのに、遠野先輩の前だけなんていうか、観察してる感じで」
俺は黙った。
桐谷の言葉は、俺が今まで「気のせい」で済ませていた違和感を、外側から確認してくれた。
桐谷の目は、まっすぐ俺を見ていた。
「先輩、佐伯先輩のこと、なんで今訊くんですか」
俺は少し迷ってから、答えた。
「最近、自分の人生について考えていて。あの人の存在がちょっと引っかかってる」
桐谷はそれ以上は訊かなかった。代わりに、ゆっくり頷いた。
「先輩が話したくなったら、いつでも話してください」
その言葉は、いつもの桐谷の優しさより、少しだけ深かった。
俺は「ありがとう」と短く返した。
桐谷と別れて、家に戻る途中、サークルのOB一人に電話した。
佐伯先輩と特に親しかった、二個上の先輩だった。今は社会人で、会うのは年に一度くらいになっていた。
二回目のコール音で、相手は出た。電話口の向こうから、駅のアナウンスが微かに聞こえた。
「もしもし、佐伯さんのこと聞きたいんですけど」
OBは少し驚いた声を出した。
「珍しいな、お前から佐伯のこと訊くなんて」
「最近、ちょっと思い出すことがあって」
「ふうん。あいつ、卒業してから連絡取れないんだよ。SNSも全部消してるし、年賀状の住所も変わってる」
「卒業前から、そんな雰囲気でしたっけ」
「ああ、卒業の半年前くらいから、ちょっと距離取り始めてた。何かあったのかは聞いてない」
「サークルにいた頃の佐伯さん、どんな人でしたか」
OBは少し黙った。電話の向こうで、彼が考えている時間の重さが、こちらにも伝わってきた。
「うーん、難しいな。優秀だったよ。要領もよかったし、頭もよかった。でも、なんか、人とは一定の距離があった。観察してる感じ、っていうか」
俺はその言葉を聞いて、桐谷と同じ評価だと気づいた。
「お前、佐伯のこと気になるなら、卒業アルバム見てみろよ。あいつ、全部の集合写真でちょっと斜め後ろに立ってるんだ。気をつけて見てみると面白い」
OBは笑った。
「ありがとうございました」
俺は電話を切った。
部屋に戻って、押し入れから去年の卒業アルバムを引っ張り出した。
埃の匂いがした。重い表紙を開く時、紙のささくれが指の腹に触れた。
サークルの集合写真を一枚ずつ確認していった。
OBの言う通りだった。
佐伯先輩は、全部の写真で列の中心からほんの少しだけ外れた位置に立っていた。完全に外れているわけではない。集合写真の構図を崩さない範囲で、他の誰よりも一歩だけ後ろに立っていた。
最初の一枚を見たときは、偶然だと思った。
二枚目で、おかしいと思った。
三枚目で、確信した。
ページをめくる手が、いつの間にか少し速くなっていた。
佐伯涼は、写真に写ることを意識的に避けていた。
いや、もっと正確に言えば——
佐伯涼は、世界の中心から、自分の位置を意識的にずらしていた。
俺はベッドの上に座って、アルバムを膝に置いたまましばらく考えていた。
佐伯先輩は、何かに気づいていたのかもしれない。
俺がやっと辿り着いた仮説にあの人はとっくに辿り着いていたのかもしれない。
だから、観察する側に回った。
だから、距離を取った。
だから、卒業後に連絡を絶った。
もし、それが本当なら——
佐伯先輩は、世界の設計の例外ではない。
佐伯先輩は、設計に気づいた、もう一人の俺だ。
俺は、もう一人の自分が過去にいたことを、初めて知った。
桐谷とのカフェでの対面、サークルOBへの電話、卒業アルバムの発見。
三段階で情報が積み上がっていく構成、書いていて気持ちよかったです。
「佐伯先輩は、設計に気づいた、もう一人の俺だ」。主人公が、自分は孤独ではないと初めて知る瞬間でした。




