8.5話 幕間
「すぅ、はぁー」
それを顔に近づけながら空気を吸い込む。
あぁ、良い匂いがする。そう、豊浦さんのあの匂いだ。
一つ一つ丁寧に焚き染めているんだろうか。いやいや、きっと豊浦さんの側に長くいたから自然と染みついたんだろう。そうに違いない。
……この匂い嗅ぐと、すごいキスしたくなってくるな。
なんてキケンな物体なんだ。
「あれ、深喩が読書なんて珍しいこともあるもんだね」
「……まぁ、たまにはいいよね」
わたしが現在持っているのは豊浦さんに昨日渡された百合小説。
家に帰ってちょろっと読んでみると、存外面白かったのであった。
痛気持ちいい、と表現するのが的確だろうか。読み進めるたびに恥ずかしさが込み上げてきて思わず唸り声が漏れてしまうのだが、それでも物語の行方が気になってしまい、ページをめくる手が止まらず、気がつけばなんと中腹地点ほどにしおりが挟まれていた。
学校で読むのは色んな観点から控えた方がいいと思っていたのだが、そこは豊浦さんを見習って──続きが知りたすぎて抑えきれなかっただけなんだけど──みた。
そんなわたしを、というか通常お喋りの方が得意なわたしが口を閉じているのを不思議がって麗衣は話しかけてきたようだった。
「何読んでるのー?」
と覗き込もうとしてきたのでわたしはすかさず胸元へ引き寄せて、
「そんな大したものじゃないから!」
麗衣は不思議そうな顔にむっとしてるような色を足して、わたしを見つめてきた。
「でも、なんで隠すのさ」
「い、いやぁ、そう易々と人に見せれなくて……」
「私も深喩がそんな高尚なの読んでると思ってないよ」
「それは不服なんだけども?!」
「じゃあどういうジャンルかだけでも教えてよ。深喩が読んでる本ってのすごい気になる。そのサイズ感だし、それってちゃんと小説でしょ?」
一応、ジャンルで言えば”恋愛系”と答えることはできる。百合の小説だし、そこは間違っていない。
けど……。
「あ、分かった。なんかえっちなの読んでるんだ?」
大正解! えっちなのです! だから見せられません!
しかも百合系のやばいやつです!
……なんて正直に言えるわけもなく。
「よ、読んでないわい!」
「じゃあ見せてよ」
「ムリムリムリ! ムリだから!」
「んー、見せられない本って言えばえっちなのくらいしか思いつかないんだけど……。別に私そういうの大丈夫だよ?」
「そういう問題じゃあない! 麗衣、おったまげちゃうからぁ!」
もし百合趣味があると思われてしまったら。
麗衣は女から恋愛感情向けられることさえも怖がってしまっているのに、それなのに、こんな身近に自分を襲いかねないやつがいるとなれば、確実に麗衣はわたしから離れていってしまう。
こんなことで麗衣との仲が裂けてしまうなんて耐え難い、耐え難すぎる。
読書欲に負けて開いてしまったわたしがなんとも腹立たしい。普段本を読まないんだし、こうなるのは目に見えていただろうに……。
「おったまげる、か……。ますます内容が気になるんだけど」
「なんで?!」
「あらすじだけ! あらすじだけでいいから!」
「そんな先っぽだけみたいに言われても……」
「ん? 何それ」
「あ、いや、なんでもない」
危うく地雷を爆発させちゃうところだった……。
「ね、いいじゃん。あらすじだけ聞いて想像するから、ね?」
「いやぁ……」
と、わたしが突貫で物語を創作していたところ、なんと救世主が現れた。
「いやぁー、あの担任ほんましんどいわ。なんであの量のプリント1人で持っていけると思ってん」
「晴ちゃん先生も見誤ったね、椿の力量を。椿嬢はお箸より重いもの持ったことないんだもんねー?」
「このカバンやって箸より重いわ」
麗衣が2人に気を取られたその一瞬、わたしはとっさに本を制服のポケットに仕舞い込み、何もないように装った。これからこの本は肌身離さず持っておくことにしよう……。
そして続けて、本の話題を過去のものとするべく、
「おっはよっ、2人とも! 今朝は教室に来るの遅かったね。翠はさておき、椿は珍しいね?」
「聞いてや、深喩ちゃん。うち、今日日直やってんか。でぇ、職員室に学級日誌取りにいってん。ほんならそん時、晴子先生に英語準備室からこっちにプリントを持ってきて欲しい言われてん。まぁ、断る理由もないから引き受けたんやけど、現地についたらまあびっくり。5組分のプリントで山が出来てんやで? こんなか弱いオンナに持てるわけないやんなぁ? ほんでどないしよ思て外出たら、たっまたま翠見つけて運ぶの手伝ってもらったねん。あんなん1人で運んでたら8年かかるわ」
「あのね、深喩ぴよ。椿は大袈裟に言ってます。全然大したことなかったんだよ? 多分、翠0.6人分で充分」
「つまり、うちは翠の1.67倍か弱い乙女っちゅうことやんな? しゃーないやん、花よ蝶よと育てられてもうたんやから」
「流石、ほんまもんのお嬢様は違いますなぁ」
聞くところによると、椿はいいとこのお嬢様らしい。
媛ノ森に入学したのも椿の親が学校法人と縁があったからとかなんとか……。
「で、深喩ちゃんは今何してはったん? なんかやましさ溢れる動きしとったけど」
椿! お前ってやつは!
折角かの話題から遠ざかったって言うのに!
「そう、そうなんだよ。なんと深喩が本を読んでたんだよ」
「えー、意外だのぉー! 深喩のすけが文学に親しんでるなんて! あれかね、キャラ変かね。理知的キャラになろうとしているのかにゃ? だったら眼鏡は必須だぜぇ?」
「深喩ちゃんが本読みねぇ。……ぷっ、似合わなすぎひん? なんかオモロいわ。笑ってまう。こういうのなんて言うんやっけ……。宝の持ち腐れ、馬の耳に念仏、犬に論語……豚に真珠?」
「別に内容理解できてるし! 面白いし! わたしにだってたまには静謐に活字の海に浮かんでいたい、そんな日だってあるんだもん!」
「へーえ、意外な一面やな。して何読んどるん? あの深喩ちゃんが面白がる文章ってことはよほどのもんちゃう? 作者の腕が相当なんやろなぁ」
「あ、いや、何読んでるかとかはちょっと……」
「そこなんだよ! なんでか内容、ジャンルすらも教えてくんないの。どう思う?」
「ははーん、さてはぁ……?」
「まー、なんとなく分かるわ。どうせアレやろ」
「アレって何」
「えろい本に決まっとるやん。だから言われへんのやろ? 深喩ちゃんのことやからな、うん。やっぱ聞かんとくわ。性癖を人に曝け出すんはあんまりいい気分ちゃうもんな」
「いや、わたしは一体どういうキャラで通ってるんだよ!」
「そりゃあ思春期真っ盛りのえろえろ娘や」
「なんでぇ!」
「あんな楽しそうにキスの話されたらなぁ……。なぁ、麗衣?」
「……キス、ファーストキス、翼、男……。許すまじ! 大体恋愛なんてのはさ──」
「あかん。今回はうちから種蒔いてしもた。もうキスって言葉で連想ゲーム的にそうなってしまうんや。これから気ぃつけんと。……いや、そもそもキスしてるんが悪いから、うち悪ぅないわ。反省しぃや、深喩ちゃん」
「なんでまたわたし!」
そうして、そこから──麗衣は勝手に演説をしているので実質3人での──談笑が始まり、ついにはホームルームのチャイムまでそのまま続いて、わたしの本のことはうやむやになってくれた。
こんな本早く読破して豊浦さんに返してしまおう。
ずっと持っているのは色んな意味であまりにもキケンすぎる。




