9話 翼くん①
放課後、今日はあの3人衆とこれでもかというほど遊び呆け、足を進めるのに街灯の光を頼らざるを得なくなった頃、ようやく帰路に就くこととなった。
3人衆とのつるみを減らせば、付き合いの悪さからキスフレの関係とまでは言わないまでも、何かしらやましいことをやり始めたというのを勘繰られてしまうかもしれない。なのでどれだけキスをしたいという衝動に襲われても理性で己を律する。
お預け状態を既に1週間耐えきっているわたしに、今更そんなことどうってことない……と思っていたのだが、実際そうでもなかった。
というか前以上に辛くなっている気すらする。
多分、前まではできる可能性すら心当たりがなく、夢物語的にキスを想い、半ば諦めも含んでいた。
しかし、それが急に現実となり、手の届くところになったことでわたしの我慢のキャパシティが小さくなってしまったのだと思う。
3人衆と遊んでる時も、なぜだか急にキスのことを思い出してしまって美少女たちの唇に見惚れてしまうという事態が発生したこともあった。
……最近のわたし、どうかしすぎている。
翼くんと初めてのキスなんかしなければ今も普通の生活送れていただろうに……。
いや、違う。キスをしたのは別にいいんだよ。
そこじゃなくてわたしがキスにとりつかれてしまったにも関わらず、できなくなったのがよくない。
神様も本当にタチが悪いな、まったく。
「ただいまー……って、んあ?」
玄関に見覚えのあるようなないようなローファーが置かれていた。まずもってわたしのものではない。
誰が来ているのか? なら愛想良くしてやらないと。なんて考えつつ、靴を脱いでいたところ、わたしの声を聞きつけたお母さんがエプロン姿でリビングから飛び出してきた。
「あ、おかえりー、深喩。あんたのカレシさん来てるわよ」
「……は?」
開いた口から自然と声が漏れ出た。
「なに、とぼけた顔してんのよ」
「つ、翼くんが……?」
あぁ、しまった。自然消滅したことお母さんに言ってなかったっけ。
いやいやいやいや、それにしてもなんで今更翼くんがウチに? ホントにどういうこと?
わたしはすかさずスマホを取り出し、何かメッセージが送られてきていないか確認する。
結果、何もなし。それどころか既読無視されたままだった。
……謝りに来たとか? 確かに礼儀正しいヤツだったけど。どういう風の吹き回しだよ、自分の意思で消滅させたっていうのに。こういうのを厚顔無恥って言うんじゃないの? まずメッセージ返すのが先じゃない?
もしかして復縁の申請ですか? だとしたらちょっと嬉しいな……って、それは流石にチョロすぎる!
でも翼くんというイケメンカレシとまたあの楽しい日々が送れると思うと、どうしても胸が高鳴ってしまう。
ただ、冷たい態度になった理由をわたしが納得できるように詳しく説明してもらわないと許可なんて下ろせない。
……わたし、勝手に浮かれるちゃってるけど、翼くんが来た理由はまだ分からないじゃん。前に家に来たときの忘れ物を取りに来たとか、それだけの可能性だって全然あるのに。
もしそうだったら、この湧き上がってる興奮にどう落とし前つけてくれるつもりなんだよ、翼くん。
「リビングにいてもらうのも困るから、今あんたの部屋にいるわ」
「へ、へー、そうなんだ。翼くん、なんか言ってた?」
「なんかって? 別に言ってなかったと思うけど」
「そ、そっすか……」
そうして、わたしは恐る恐る部屋へと向かっていった。
足を進めるごとに膨らんでしまう期待感。これは本能だ。人生で初めて付き合って、そして人生で初めてキスをした男がわたしの部屋にいるのだ。感情を抑えろだなんて無理に決まっている。
高揚した気持ちを内へ内へと押し込み、凛とした姿勢を作ろうと試みる。あっちのペースに乗せられないようにしなければいけない。
認められないものはしっかり認めず、赦せるものは寛容に赦す。自分からいきなりキスをしといて翼くんに引かれて見捨てられる、これはマッチポンプ的状況であって、わたしは被害者であると同時に加害者でもある。ただし、それは翼くんも同様。だからこの再会はお互い対等でなければならない。
ようやく部屋の前についたわたしはもったいぶるようにゆっくりとドアを開けていく──
「……何してんの?」
部屋に入って最初に目に映った光景は、わたしのベッドにうつ伏せで身体を預けている翼くん。部活終わりなのかジャージ姿で、わたしの枕に顔を埋めながら足をばたつかせていた。
期待感は一瞬にして不信感へと変移した。
「……はっ」
わたしの声に気づいた翼くんは顔を上げ、のっそりと動きつつ、ベッドを降りた。
そして中腰のような低い姿勢を維持したまま、わたしの前まで来ると、
「ごめん、深喩」
スムーズに土下座の体勢に移行し、謝罪してきた。
どうやら奇行については釈明せず、うやむやにするつもりらしい。
「え……何? ホントに何? 何なの?」
「……君には色々謝らなければならないことがある」
「で、でしょうなぁ! 今日は律儀に謝りに来たってわけですか! 翼くんが消えてからわたしもう大変だったんだからね?!」
「うん、本当に申し訳ない。でも分かってほしい……というのは、ボクの我儘だ、分かってくれなくていい、ただ深喩に聞いてほしいんだ。ようやく気持ちの整理がついたから……」
「はぁ……」
ここまでしおらしくなっているのに何も聞かずに追い出してしまうのは酷だと思って、というか折角家まで足を運んでくれて、なおかつわたしが帰ってくるまで待っていてくれたというので情けをかけてやることにした。
ただ、翼くんが正座の状態で、それをわたしが見下ろしているというような光景はどうにもきまりが悪く、ベッドに座って話すこととなった。
隣同士に座って、わたしは俯いたままの翼くんを見つめる。
……こうしてまた2人でベッドに座ると在りし日のことを思い出してしまう。
わたしはこの人と、まさにこの場所で唇を重ねた。それは記憶に新しく、鮮明に脳裏に蘇ってきやがるので、わたしは居ても立っても居られない気持ちになり、またそういう気持ちを押し隠すために、翼くんより先に口を開いた。
「……まず、わたしから一つ聞いてもいい?」
「もちろんだ。何でも聞いてくれたまえ」
「あの……わたしたちってまだ付き合ってるの?」
「……別れていてもおかしくないことをしたとボクは思っている。だから君が別れているのだと思うならそうなのだろう」
どう考えても別れてるって思うでしょ。カレシに既読無視されるカノジョなんてありえない。
「てか、既読無視は一体どういう了見なの?」
「文字だけでボクの気持ちは伝えきれないと思ったし、なによりそれでは不誠実だと思ったんだ」
なんだか翼くんらしいというか……。こういうとこは真面目なんだよな、この人。
と、わたしの問いから会話が始まってしまったため、翼くんは喋り出す機会を見失っていたらしく、仕方ないのでこっちから続きを促してやった。
「……単刀直入に言おう」
単刀直入に、なんて大層な前置きをしてきたので、わたしは自然に身構えてしまう。
翼くんは大仰に息を吸い込んでは吐き、そして何か祈るように目を瞑った後、わたしを真剣な眼差しで見つめ、
「ボクは女だ、女なんだよ」
「……は?」
それは想像していたのとはまったく別ベクトルのカミングアウトであって、そのせいで背中の真ん中を誰かにすいーっとなぞられたみたいな妙な感覚が起こった。
「隠してたわけじゃないんだ。言う機会を逸していたというか……。どうもボクは男とか女だとか性別の意識が人よりも低いらしくてね。……いや、そんなものは言い訳に過ぎないな。真実を話して深喩が離れていってしまうのをボクは内心恐れていたんだろう」
「いや……え、は?」
わたしを捨てたカレシが急に家に乗り込んできたと思ったら、部屋で奇行をしていて、挙げ句の果てに自分が女だとかほざいてやがる……。
こんな状況を一瞬で飲み込めるやつがこの世にいるだろうか。いや、いない。いるならそいつは相当な傑物だと思う。
……ん、ちょっと待って。もし翼くんの言っていることが本当だとしたら、わたしはいまだに男性経験のない女子高生ってこと?! というかわたしは女のキスによってキスの虜になってしまったというわけ?!
翼くんが女だって思い当たる節は……ないけど、強いて言うなら待ち伏せしても見つからなかったことくらい。あの時、何十人、何百人の生徒の中から翼くんを見つけ出さなければいけなかったから、効率性を求め、下半身を見てズボンを履いてる生徒の顔だけを確認するようにしていた。もし翼くんが女だとしたらスカートを穿いていたというわけで、わたしの捜索網から抜け出せたのも容易に納得できる、できてしまう……。
そういえば翼くんと一緒にいる時、トイレに行ってるの見たことないや……。




