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10話 翼くん②

「女、翼くんが女……」


「そんなことは別に重要ではないんだっ!」


「わたしにとってはちょー重要なんですけど?!」


 翼くんはわたしの抗議の言葉を無視して、


「あの日、ここで初めてボクと君が唇を合わせた日、君は身体を迫ってきたよね」


「え、あ、はい……」


「ボクはその時、怖くなったんだ」


 肉食獣みたいな眼でもしてたのかな、わたし。


「君が肉食獣のごとき眼をしていたとか、そうではない。むしろ、ただ快楽へ奔らんとする深喩のあの姿、美しかった、美しかったよ」


 こいつ、心を読んできやがった。

 あと恥ずかしいからわたしのヘンな姿、思い返すのやめて? 


「そうではなく、ボクは君の期待に応えられないんじゃないかって、そう怖くなったんだ」


「……」


「ボクは女で、当然として男についているようなものがない。だから、キスのその先の行為は君の考えるものとは全く違うものになってしまうかもしれない。満足させることができないかもしれない。不安になったんだよ……」


 えっ……。翼くんってばわたしのことめっちゃ好きじゃん?!

 失礼な話、翼くんはイケメンだし、モテるだろうし、わたしなんてのは新しい標的が見つかるまでの繋ぎぐらいにしか見てないと思っていたし、わたし自身も早く大人の階段を上りたかっただけでがっちり付き合うつもりはなかったし、だからこそわたしたちは相互利益的な都合の良い関係なのだと自分の中で勝手に割り切っていた。キスを大胆にも最速で済ませることができたのもそう思い込んでいたのが理由。

 いや、でもでも好きだったのは本当なんだよ? SNSで出会った仲だけど、やっぱり翼くんはイケメンだし、イケメンだし、イケメンだし……その持ち前の顔の良さのおかげでどんな行動も仕草もカッコよく見えた。だから付き合えたのはめちゃくちゃ嬉しかったし、翼くんと一緒にする何もかもは心の底から楽しかった。

 確かに告白してきたのは翼くんからだったけど、その時は競り勝ったというくらいにしか思っていなかった。

 まさか翼くんがそこまでわたしのことを想っていてくれたなんて……。

 あの日、理性を忘れて流れに任せてしまえば必然的にキスのその後の行為に及んでいた。

 しかし、そこで初めて翼くんの正体を知ったわたしは一体どんな反応をしていただろうか。騙されたようなことへの怒り、昂ってしまっているのにできないという肩透かし感、失望、呆然……色んな感情で頭の中がぐちゃぐちゃになることに違いない。

 翼くんはわたしのことが大好きなのに、早くそういうことをしたかったはずなのに、我慢した、してくれた。そこには想像を絶する葛藤や苦悩があったのだろう。

 あぁ、罪悪感に押し潰されそうかも……。

 

「それでボクは君から身を引くことを決めたんだ。君を夢から醒ませないために……。でもできなかった。そんな高尚な意思があっても、ボクはボク自身の欲望に背くことができなかったんだ。目を閉じれば瞼に君の太陽のような笑顔が映り、筆を走らせれば無意識のうちに君への気持ちを綴っている。ボクは本当に、心の底から君が好きなんだよ、深喩」


「……」


 どうして翼くんはそんな気恥ずかしい言葉をぺらぺらと捲し立てられるのか、なんて一周回って冷静になって、あるいは照れ隠し的に頭を巡らせて返答を引き延ばしていると、


「急にこんなことを言っても信じてもらえないよね」


「い、いや、信じるとか信じないとかそういうことじゃなくて──」


「よろしい」


 わたしの手は翼くんに掴まれて低い位置にまで持ってかれた。


「ここ、触ってくれるかな」


 決意したらすぐに触ってしまえるような距離、そんな近くに翼くんのお股があった。無理矢理触らせようとしないのは、わたしに真実を曖昧に、シュレディンガーの猫的状況にしておくかどうかということで判断を委ね、その猶予をくれているのだと思う。

 その行動から本当にわたしのことを第一に考えてくいるという心裏が窺い知れて、なんだかこそばゆい。

 知らぬが花。確かめなければ、わたしはただ”翼くん”というイケメンと付き合っていたという事実があるだけで、それ以上も以下もない。確かめなければ何か変わってしまうということもない。だからきっと確かめない方がいい。

 わたしは翼くんをちらりと見てみた。


「……」


 儚げに微笑んでいる。森羅万象を慈しむ女神のような顔で。

 ここで手を引いても翼くんはわたしの意思を尊重してくれるに違いない。それできっと諦めがついてわたしに執着することもなくなるのだろう。

 ……でも、本当にそれでいいのか?

 翼くんは勇気を出してウチに来てくれた。それなのに、わたしは臆病にも真実を知ろう、受け入れようとしないなんて。それはなんともアンフェアで卑怯じゃないか……?


「じゃ、じゃあ触る……よ?」


 わたしは意を決して指を伸ばした。

 すると、


「んっ」


 翼くんの口から小さな息がこぼれた。


「ちょっ! ヘンな声出さないでもらってもいーい?!」


「懸想する人に大事な部分をまさぐられたというのに声を出すななどなんて殺生な……」


「ま、まさぐってない! 確認しただけでしょーが!」


 結論を言うと、なかった。翼くんには男に当然ついているであろうソレはなかった。

 つまり自己申告の通り、翼くんは本当に女なのであった。


「……これで分かっただろう? ボクは正真正銘女なんだ。あ、一応上の方も触っておくかい?」


「け、結構です!」


「遠慮しなくていいんだよ?」


「決して遠慮とかでは……」


 沈黙。

 わたしから何か気の利いたことを言った方がいいのだろうか。

 というか結局、翼くんはわたしとの復縁を申請しにきたってことでいいのか。まさかカミングアウトをするだけのためにわざわざウチに来たわけではあるまいし……。

 復縁、復縁、そうか……。翼くんが男のままだったら喜んで受け入れられたんだろうけど、やはり女と分かってしまった今、多少ためらいがある。

 別に翼くんは翼くんで顔はカッコいいままだし、別に何か変わったということもない。翼くんと恋人同士として過ごしたあの日々は本当に楽しかったし、ファーストキスの相手としても思い入れがある。

 だから復縁も別に悪くないのかな、なんて思ったりしてる自分がいる。

 ……けど、わたしに百合属性はないのだと後ろに手を引く理性があって、その2つがせめぎ合っている。

 というかもし本当に復縁するとしたら、豊浦さんとは縁を切らなきゃいけない……よね? だってカレシがいるのに他の人とキスするなんて意味分かんないし。

 まあ、元々そういう関係だったんだけどさ、それでもいらなくなったら捨てるって無情すぎないかな。

 わたし、豊浦さんのファーストキスも奪っちゃってるのに……。

 

「深喩」


「……な、なんでしょう」


 深く逡巡していたところ、翼くんが急に重々しい口調でわたしの名を呼んできたのでびくっと腰が浮いた。

 いつの間にやら翼くんはわたしの方に身体を寄せていたらしく、お尻とお尻が触れ合うようなキョリになっていた。

 翼くんはわたしの問いかけには反応せず、湿り気のある瞳でじっと見つめてくる。

 恥ずかしいんだけど……。


「キス、してもいいかな」


「な、なんでよ……」


「したいからしたいのさ。ふふっ、やっぱりボクはダメだな。今日は我慢するつもりだったんだけど、深喩の顔をこんなにも長時間見ていたらどうにも抑えられそうにない」


 わたしに断る勇気はない。

 キスするのが──今日は命さんとしていないのもあって──わたしにとって願ったり叶ったりであるということは一旦置いておいて。

 罪悪感。翼くんはこれまでわたし以上に悶々としていた日々を過ごしていたに違いない。

 キスしたいなどという単一的かつ俗物的で愚かしいわたしの悩みとは違った、色んな想いが複雑に絡みあった悩み。

 わたしにそんな感情を止められる術はない。

 だけど……。


「やっぱり女のボクではいけないのかな……?」


 婉曲的に断る理由を考えてみてもそれはうまく言葉にならない。

 わたしに百合属性はないと言おうものなら在りし日の翼くんとの記憶が呼び起こされ、物理的に拒否しようにも罪悪感が勝り、もう好きじゃないからなんてのはわたしには到底口にできない。

 袋小路だ。

 

「返事は後で聞くことにするね」

 

「えっ、え」

 

 もう気づいた時には翼くんの端正なお顔がわたしの視界いっぱいに広がっていた。

 そう、わたしの唇は翼くんに奪われてしまった。


「ん、んぅ……」


 あぁ、気持ちいい。1日ぶりだからか格別に思える。

 懐かしく感じさせる唇の熱はすぐに頭まで伝わっていく。

 そして、それは失った時間を取り戻すように長い長いキス。

 どうにも翼くんはわたしから唇を離してくれる気配がない。

 ふと、翼くんとこうしてキスしてるのに、なぜか豊浦さんの顔が脳裏に浮かんできた。

 キスフレがいるのに他の人とキスしたら浮気じゃないか、みたいな。いや、豊浦さんとは付き合ってるわけじゃないから浮気とは違うんだけどさ。

 ……どうしてだろ。


「……っはぁ」


「どうかな、ボクたちの蜜月を思い出してくれたかな。……やはりキスはいいものだね」


「そこは大いに同調するところだけどさ……。無理矢理にキスはだめでしょうよ……」


「嫌だったかい? それならさっきの長い長い時間でぴくりとも抵抗の仕草を見せなかったのはなぜだい?」


「いやぁ、だってわたしキス好きだし……」


「む、ボクの知る限りでは君はこのボクとしかキスをしたことがないはずだけど。その口調は常習的にキスをしているように聞こえてしまう。勘違いされる。改めた方がいい」


 実際、常習的にしてるんだよ。


「ま、まさかボクの知らないところで、ボクと音信不通になってしまった悲しみを紛らわすために他の人とキスしていたのか?!」


 翼くんはテレパシストか何かなのか?!

 それともわたしが顔に出やすいだけ?!

 ……ここは隠しても仕方あるまい。


「うん、まあ……ね」


「な、なんてことだ……。付き合ってたりはいないのかい、その人とは……?」


「付き合ってない付き合ってない」


「じゃ、じゃあただ遊びの関係かい?」


「その言い方はアレだけど……」


「キ、キス以外はしてるのか……?」


「してないしてない」


「それは……よかったというべきか……。けど、それでも……妬いてしまうな。ボクはなんてわがままなんだろうね。そんな気持ちにさせた本源はボクにあるというのに」


「……」


「ではそのキスを上書きしないといけないな」


「う、上書き……って、え?! ちょっとちょっとちょっと!」


 翼くんは急にわたしを押し倒し、上に覆い被さってきた。

 そして、そのまま唇を塞ぎつつ……なんとブラウスのボタンを外し始めた。


「んっ、んー!」


 手で翼くんを押し上げようと試みても、帰宅部のわたしと部活少女では力の差がありすぎた。

 マズい。このままではキス以外の初めても翼くんに奪われてしまうことになっちゃう……。そしたらもう言い逃れなんてできず、百合娘ではないのだと胸を張り、大手を振って街中を歩けなくなる……。

 「キスはえっちの予告」とは、なるほど、こういうことなんですね……って感心してる場合ではなく!


「一生添い遂げると誓おう!」


「付き合ってもないのにプロポーズってなんなの……っ!」


 と、ブラウスが全開になり、わたしの肌へ翼くんの指が落とされそうになった時、救いの声が聞こえてきた。


「深喩ー! ご飯よー! 翼くんも食べて言っちゃいなさーい!」


 翼くんの動きが止まる。こうなれば下手に再開も出来まい……。

 ありがとう、お母さん。何も知らないだろうけど、あなたは今、娘の貞操の危機を救いました。

 助かった……。

 翼くんは諦めたような顔をして上体を起こしつつ、


「ふむ、では今日はここまでだな。さ、乱れた格好を整えてあげよう」

 

 そう言いながら律儀にも自分で外したボタンを留め直し始めた。


「……え、もしかして翼くんウチで夜ご飯食べてくの?!」


「もちろんさ、深喩のお義母(かあ)さんに挨拶したいからね」


「……そのおかあさんってのは義母って漢字を当てるんじゃないでしょうね」


「ふふ、心が通じ合っているな、ボクたちは」

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