第52話 船出
二千人の魔族は、波間に揺れる船団の上で静かに整列していた。
玉座の間で決意を示したイーリャの言葉が、ここに生きている者すべての胸に響いている。
「ボクたちは、大陸を離れるーー静かに、生きるために」
沈黙の中、長老格の魔族が口を開いた。
「従おう。道を示すのは、あの半魔の末子様だ」
続いて全員が頷く。若き戦士たちの目には不安が光るが、決意には逆らえない。
港には、夜の静けさと波の匂いだけが漂っていた。
遠い岸辺では、ルシアが小さく手を振る。
視力の弱いグレンに抱きかかえられ、必死に姿を追っていた。
かつての勇者レオンも、歳月を刻んだ顔で立ち尽くしていた。
精気を吸われ、勇者の肩書きは消えたが、その目には守ろうとする意思が宿っている。
突如、冒険者の一団が火矢を放った。
魔族を滅ぼす最後の機会ーー
矢は船団に向かう。
だが、淡い光が船団を包み込み、火矢は静かに弾かれる。
誰一人傷つかず、船団はそのまま海上に立ち続けた。
イーリャは一度だけ大陸を振り返った。
戦火と仲間の面影ーー遠く霞む光景に小さく息をつく。
月光が海面を照らし、船体は銀色に輝いた。
波のリズムに合わせ、夜風が頬を撫でる。
「行こう」
その声が、船団全体に伝わり、静かな出航の合図となった。
兄弟たちが待つ船室に歩を進める。
長兄ヴァルドは力強い瞳で、船の揺れにも微動だにせず立っていた。
次兄キースは冷静に周囲を見渡し、風や波の情報を確かめるように目を光らせる。
三番目の姉エリンは穏やかな笑みを浮かべ、心配そうに手を伸ばしたまま、しかし決して口を挟まず、静かに見守っている。
大陸を背にして、波音だけが彼らの決意を祝福するように響く。
船はゆっくりと大陸を離れ、夜の海を滑るように進む。
海面に映る月の光が、まるで銀の道を作り出すようだった。
帆は風を受け、柔らかくたなびく。
二千人の魔族の影が波に揺れ、船団は静謐な行列のように整列する。
イーリャは兄弟の顔を一瞥した。
ヴァルドの力強さ、キースの冷静さ、エリンの優しさーー
それぞれの存在が、自分の決意を支えていることを実感する。
遠くに残る大陸の光は、すでに小さく、かすかな点に過ぎない。
胸には悲しみも痛みも、そしてラドの面影もある。
だがそのすべてが、新たな未来への力となった。
夜の波がさざめくたび、微かに甲板に響く音が、静かに戦いの終わりと生の始まりを告げる。
船は進む。進むことでしか、二千人の命は守れない。
静かに、しかし確かにーー
これが、争いを避け、魔族が生き延びるための第一歩だった。
波間に揺れる銀の船団は、まるで夜空を駆ける星の列のように、未来を照らしているかのようだった。




