第49話 三賢人の博識
「負の連鎖を繰り返さぬために、お前たちは大陸から離れるのが最善だ」
静かな声だった。
だがその言葉は、重く玉座の間に響いた。
「西の小島群ーーお前たちがまだ安全に集える場所がある」
イーリャは顔を上げる。
テイルグレイは、古い書物を読み解く学者のような落ち着いた目で、空間に浮かぶ魔法陣を見つめていた。
彼の知識は、光の神殿を支える三賢人としての長い年月に裏打ちされたものだ。
各国の地理、古代の航路、失われた島々の記録――そのすべてが、今この瞬間の言葉を支えている。
「そこなら、二千人の魔族が静かに集い、再び力を蓄えることができるはずだ」
二千人。
その数を思った瞬間、イーリャの胸が締めつけられた。
かつて大陸中に広がっていた魔族の民は、もっともっと多かったはずなのだ。
戦争。
内乱。
そして人間の討伐軍。
長い年月の中で、魔族は少しずつ削られ、気がつけばその数は二千にまで減っていた。
イーリャの瞳に、わずかに涙が浮かぶ。
だがその涙はすぐに押し戻された。
決意は揺らいでいない。
「……ラドも、きっと…ボクの決意信じてくれるはずだ」
小さく呟いた。
胸の奥に、彼の顔が浮かんだ。
いつも無愛想だったけど、どんな時も全力で守ってくれた護衛。
ラド。
彼はもう、この世界にはいない。
けれど。
(きっ怒るかな……?)
イーリャは心の中で、苦く笑う。
「逃げるのか」と。
「戦え」と。
そう言って、頭に手を置いてくる違いない。
それでも。
(それでも、僕は)
イーリャは拳を握った。
ラドを失った悲しみは深い。
胸の奥には、今も消えない痛みがある。
だがその痛みこそが、イーリャに教えてくれた。
これ以上、同じことを繰り返してはならないと。
テイルグレイが静かに続ける。
「もちろん簡単な旅ではない」
彼の声は穏やかだったが、その言葉の裏には厳しい現実があった。
西の小島群までの航路。
船の準備。
そして二千人という民の移動。
すべてが困難だ。
「だが、お前の目的は、争いを避け魔族の未来に存続させることだ」
イーリャはゆっくりと頷いた。
そうだ。
王になることでも、力を示すことでもない。
ただ。
民を生かすこと。
それだけだ。
「ニ度と、同じ悲劇を繰り返させない」
小さく、しかしはっきりと誓う。
その時、海風が窓を揺らした。
遠い潮の香りが玉座の間へ流れ込む。
テイルグレイが魔法陣に手をかざすと、光が広がった。
空間に映し出されたのは、青い海だった。
いくつもの小さな島が、静かな水面に浮かんでいる。
人の手がほとんど入っていない、穏やかな場所だ。
「ここだ……」
テイルグレイが静かに言う。
「ここで、新しい生活を始めろ」
その光景を見た瞬間、イーリャの胸の奥がじんわりと温かくなった。
戦いも。
憎しみも。
遠く離れた場所。
ラドの死が、ただの痛みではなく、覚悟へと変わっていくのを感じた。
テイルグレイはゆっくりと背筋を伸ばした。
そして静かに言う。
「準備が整い次第、神に会い、旅立ちの加護を願おう」
イーリャは、静かに言った。




