第30話 聖女と勇者
ーー次の日の朝、聖女と、神の信託により選ばれた勇者が出会った。
夜明けの光が窓から差し込み、白い大理石の床に淡くく広がっていた。
静まり返った神殿には、香の煙がゆるやかに漂っっていた。 、
壁面には、古の光と闇の伝承を伝えた彫刻が刻まれ、朝日に照らされて浮かび上がっていた。
勇者レオンは、その中央に立っていた。
これまで幾度も剣を振るい、幾度も死線を越え、数え切れぬ人々と出会ってきた。裏切りもあれば、友情もあった。歓喜もあれば、絶望もあった。だが、その経験のすべてをもってしても、今、目の前に立つ少女に対する感覚をうまく言葉にできなかった。
聖女ルシア。
神殿が神託によって選び出した、十八歳ほどの乙女だという。
純白の法衣に身を包み、背に流れる金色の髪は朝の光を受けて柔らかく輝いている。茶色の瞳は澄んでおり、濁りのない泉のようだった。肌は白く、整った顔立ちは誰が見ても美しいと言うだろう。
だがーー
その口元が、わずかに半開きなのだ。
まるで何かを言いかけているようで、あるいはぼんやりと夢の続きを見ているようで、きゅっと結ばれることがない。幼さの残るあどけない唇と、完成された美貌との間に、微妙なずれがある。
その小さな違和感が、レオンの胸にひっかかっていた。
(なぜだ……?)
敵意は感じない。邪気もない。だが、何かが噛み合っていない。
ルシアは、レオンの視線に気づくと、ゆっくりと瞬きをした。そして、半開きの唇のまま、少しだけ首をかしげる。
「……ゆうしゃ、さま?」
声は鈴のように澄んでいた。しかし、どこか現実味が薄い。まるで、遠いところから響いてくるような声音だった。
その瞬間、レオンは理解した。
この少女はーー地に足がついていないのだ。
神に選ばれ、神の言葉を聞く存在。常に人の祈りの中に身を置き、俗世から切り離されて育てられてきたのだろう。人としての温度よりも、神の器としての役割を優先されてきたに違いない。
だからこそ、美しさの中に生活の匂いがない。
完成されすぎているのに、どこか欠けている。
レオンは一歩前に出た。甲冑が静かに鳴る。
そして、はっきりとした声で告げた。
「聖女、我らは、これから神託のために魔族を見極めにいきます」
神殿の奥に控えていた神官たちが息をのむ。魔族ーーそれは今、大陸を揺るがす存在。滅ぼす敵か、それとも神が『見極めよ』とレオンに命じた存在か。神託は曖昧であり、その真意を確かめる必要があった。
ルシアはしばらく黙っていた。
茶色の瞳が、ゆっくりとレオンを見上げる。半開きの唇が、わずかに震えた。
「……みきわめる?」
その言葉には、恐れも憎しみもなかった。ただ、純粋な疑問があるだけだった。
レオンは頷いた。
「そうです。敵と定める前に、真実を知る。それが神託に選ばれた勇者の務めです」
しばしの沈黙。
やがて、ルシアの口元が、ほんのわずかに動いた。今度は半開きではない。小さく、だが確かに閉じられ、そして意志をもって開かれる。
「……わたしも、いきます」
その瞬間、レオンの胸の違和感が、わずかに形を変えた。
この少女は空虚なのではない。
まだ、何も知らないだけだ。
祈りの外にある世界を。
血の匂いも、泥の重さも、人の弱さも。
それを知ったとき、彼女の半開きの唇は、どんな言葉を紡ぐのだろうか。
朝の光が強くなる。
神殿の扉が、ゆっくりと開かれた。
勇者と聖女は、並び立つ。
神に選ばれた二人の歩みが、今、静かに始まった。




