8 風の向かう先
夢。夢を見る。
夢の中で、幼い少女が泣いている。
暗闇に包まれ、一人踞っている。
どうして泣いているのか。泣いているのが誰なのか。
気がつくと、彼女に向かって歩き出していたーー
凪沢穂乃実との出会いから数日。
俺はいつものように妹を部活に見送ると、居間にある扇風機の前に座った。
「あ~……」
と、大きく口を開けながら風量を最大にして、全身でその風を浴びる。
俺は十六歳。普通なら高校二年生として生活を送るのだろうが、生憎、事故と記憶喪失の影響で、都会の高校は休学という形になっている。
たしか、以前祖母はこう言っていた。
「杜遥が望むなら、来年の四月から、二年生として学校に通えるかもしれないよ」
前の学校の単位が認められれば、転校という形で田舎の高校に通うこともできるそうだ。
とはいえ、目的のない俺に学費を払ってもらうのは、正直心が痛む。
俺は自分が生きている意味も、やりたいことも分からない。
きっと、これから探していけばいいのだろう。
でも、こんなことをしていて、本当に何かが見つかるのだろうか。
ーーピンポーン。
そんなことを考えていると、不意にチャイムが鳴った。俺はふと台所の方に目を向ける。
「はいー」
祖母がゆっくり立ち上がり、玄関の方へと歩いていく。
しばらくすると、祖母の俺を呼ぶ声が聞こえた。
「もとはるやー」
誰が来たのだろうか。呼ばれるのは初めてで、少しだけ胸がざわついた。
俺は戸惑いながらも腰を上げて、玄関に向かう。
「やぁ」
「お、おはよう」
訪ねてきたのは烏山だった。
「どうしたんだ? こんな朝早くに」
「いや、ちょっと祐介に頼まれてね。君も誘ってくれってさ。今日、昆虫採集に行かないかい?」
「昆虫……?」
「正直、僕は行きたくないんだけどね。無理矢理付き合わされてるんだ」
「…………」
誘い文句にしては、まるでやる気のない一言。そんな誘いに俺が答えをあぐねると、
「行っておいで。若いうちは外で遊ばんとね」
祖母が笑いながら、俺の背を軽く押した。
「いや、でも……」
「でもも何も、どうせお昼まで家におるだけやろ」
その笑顔に反論の言葉も出てこない。
「……わかった」
「決まりだね」
結局、押しきられる形で俺もついて行くことになった。
けれど何か、大事なことを忘れているような、そんな気がする。
「それじゃあ、僕は外で待ってるよ」
そして、烏山が玄関の扉を開けるとき、ふとそれを思い出した。
「あっ……」
そういえば、朝霧にまだ水筒を返していなかった。
「待ってくれ」
俺は慌てて声をかける。
「ん? なんだい?」
烏山は歩みを止め、俺の方に振り返った。
「その、朝霧に水筒を返したかったんだが、場所が分からなくて……」
「ああ、それなら僕が案内してあげるよ」
「……いいのか?」
「別にそれぐらい良いさ」
「ありがとう」
お礼を言って、洗っておいた水筒を取りに台所へ向かう。
「昆虫採集に付き合うし、道くらい教えてもらおう」と思っただけなのだが、案内までしてもらえるのは意外だった。荒河も言っていた通り、いい奴なのかもしれない。
水筒を手に、玄関から外に出る。
その瞬間、ムワッとした暑さが全身を包み込んだ。けれど手にある水筒の表面はまだひんやりとしていて、掌に冷たさが伝わった。
「ここだよ」
田舎道を十分ほど歩いたところで、烏山が目の前の一軒家を指さす。
その家は、田んぼと小さな雑木林に囲まれていた。手入れがいき届いているのか、瓦屋根は新しさを感じさせるほどきれいで、庭には季節の花が色鮮やかに咲いている。
「……きれいな家だな」
「まぁ、朝霧の家は昔からこの辺りで一番立派な家だからね」
そう言うと、烏山は敷石で作られた道を歩き出した。
その後に続いて、一歩ずつ慎重に進む。
玄関の前に着くと、俺は少し緊張しながら扉の横にあるボタンに指をかけた。
ーーピンポーン。
チャイム音が家の中に響き、静かな庭の空気に溶けていく。
しばらく待つと、ドタドタという足音が聞こえ、玄関の扉が開いた。
ガラッ。
「……あれ? この前の……お兄ちゃん?」
しかし、顔を覗かせたのは朝霧燦ではなく、妹の楠だった。
「ちょっと楠ー!」
そして、家の奥から慌てた声が響き、ほどなくして姉の方も玄関まで駆けてきた。
「すみません……って、あなたたしか……」
「水瀬杜遥だ。これ、この前借りたから……ありがとう」
とりあえず、朝霧に水筒を差し出す。
「……どうも。あれ、でも私の家……言ったかしら?」
彼女は水筒を受け取ったものの、不思議そうに顔を傾けた。
「いや、烏山に案内してもらったんだ」
「やあ」
俺が答えると、隣から気の抜けた返事が返ってくる。
「へぇ、珍しいじゃない。聡が人助けみたいなことをするなんて」
彼女は意外だったのか、驚いたような口調で言った。
それに対し、烏山は眼鏡を押し上げながら反論する。
「心外だね。僕は出来るだけ人には親切でいたいと思ってるんだ」
だが、朝霧が少し意地悪そうに問い返した。
「……で、本当は?」
「用事のついでだったからだね」
「おいっ!」
そんなやり取りに、思わず俺は突っ込む。
すると、二人から微かな笑い声が零れる。
一区切りついたところで、
「俺たち、これから昆虫採集に行くんだ」
俺はこれからの予定を話した。
しかし、それは踏んではいけない一言だった。
「バカッ!」
朝霧が盛大に声を張り上げる。
それと同時に、
「昆虫採集!?」
妹の方がキラキラと瞳を輝かせ、期待に満ちた笑顔をこちらに向けてきた。
「昆虫採集、私も行きたい!」
勢いよく手を上げて、俺に懇願してくる。
思い返せば、妹は虫が好きだと言っていた気がする。
「……おい、僕を見るなよ」
その真っ直ぐで眩しすぎる視線に、つい反射的に目を逸らしてしまった。
「はぁ……、こうなるともう止められないわ。まったく、昆虫は禁句なのに……」
朝霧の嘆息と同時に、夏の風が庭先を抜けていく。
「仕方ないわね」とでも言いたげな彼女を横目に、俺たちは昆虫採集に出かけることになるのだった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
「第二章 夢の中の少女」が開幕しました。この章はとあるヒロインがメインとなるお話で、第一章の伏線もかなり回収される重要な章になっています。
ぜひ最後までお付き合いいただけると幸いです。




