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World Without Memory ~生きる希望を探して~  作者: 深山河 蜻蛉
第二章 夢の中の少女

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10 伏せられた言葉

「ここら辺ね」


 燦が立ち止まり、目の前にある大きな一本の木を見上げる。


「これがクヌギの木よ」


 俺は燦とペアを組み、昆虫採集をすることになったわけだが、燦に案内されながら、林の中を歩いていた。

 どうやら俺たちは、クヌギやコナラの木が多いポイントで行うらしい。


 ちなみに、これは危険度や難易度を考慮して決めたようで、楠と穂乃実は草地と林の境界付近、祐介と聡は沢沿いの林で行うと言っていた。


「樹液は……ちゃんと出ているようね」


 燦が見ている先に視線を向ける。

 確かに黒くて艶のある樹液がじわりと滲み出ていた。

 けれど、目的であるクワガタやカブトムシの姿はない。


「あなた、虫は好き?」


 木の幹に触れながら、唐突に、燦がそんな質問をしてきた。


「別に、好きでも嫌いでもないかな」


 俺はクワガタやカブトムシといった虫を、知識としては知っている。でも、そこに感情が結びつかない。

 以前の俺が虫を好きだったのか、それさえ分からない。


「そう、なら私と同じね。私も別に、好きでも嫌いでもないわ」


 彼女は振り返り、静かに自分の意見を口にする。そして、少しだけ黙り込んだ。


「その、黙っていようか迷っていたんだけど、やっぱり最初に確認しておくわ。あなた、記憶がないんですってね」

「…………」


 燦の問いかけに、俺は沈黙で肯定する。

 どうして燦が知っているのか、思い当たる節は二つしかない。祐介たちか、それともまた祖母が話したのか。


「あのあと、祐介と聡に聞いたのよ」

「……そうか」

「……あまり驚かないのね」


 驚いていない、と言えば嘘になる。

 けれど、記憶がないことを隠していたわけではない。祐介たちと行動を共にしていれば、いずれ燦の耳に入ることも、薄々感じていた。

 とはいえ、すでに知っているとは思わなかったが。


「前にも同じように、祐介と聡に聞かれたからかな。」

「……不思議ね」


 燦は俺の顔をじっと見つめたまま、小さく首を傾げる。


「何が?」

「状況の理解も早いし、会話の受け答えも自然だもの。とても記憶を失くしているようには見えないわ」

「………」


 恐らく、燦の言っていることは間違っていない。


 俺は言葉を忘れたわけでも、常識を失ったわけでもない。ただ、自分自身に関する記憶が、ぽっかりと抜け落ちているだけだ。


 実際、俺も最初は不思議な感覚だった。


 以前、医師はそれを、知識として残る記憶と、体験として積み重なる記憶は別物だからだと説明していた。


 どうやら、脳が処理している場所そのものが違うらしい。


「『エピソード記憶』と『意味記憶』って感じかしら。英語でいうと、そうね。『episodic memory』と『semantic memory』?」

「……詳しいんだな」

「少しだけね。昔本で読んだことがあったの。ただ、実際に記憶喪失の人なんて、初めて見たけど」


 そう言って、燦は俺から視線を逸らした。

 それから何かを思い出したように顔を上げると、真剣な口調で話し始める。

 

「それと、もう一つだけ、あなたに言っておかなきゃいけないことがあるわ。」

「……なんだ?」

「穂乃実のこと。前に、『神社の幽霊の噂』とか、『五年に一度、人が死ぬ』ことについて話したでしょ?」

「ああ。」


 燦が小さく息を吐く。


「あれ、穂乃実の前では絶対に口にしちゃダメよ」

「……理由を聞いてもいいか?」

「それは……いや、今は言えないわね。また別の時に、機会があったら話すことにするわ」

「……分かった」

 

 正直、気になる。どうして穂乃実に話してはいけないのか。それに、穂乃実はその噂を知らないのだろうか。

 けれど、燦の表情を見る限り、これ以上聞いても答えてはくれなそうだ。


 そうして俺たちの間に、しばらく沈黙が流れる。


「……あ」


 不意に、燦が木の上の方へと視線を向けた。


「いた」


 俺もつられて見上げると、木の上の方ーーそれもよく見つけられたなという場所で、1匹の黒い影が樹液を吸っていた。


「この木、蹴ってもらえる?」

「……え?」


 突然の言葉に、思わず聞き返してしまう。


「いいから、早く」


 言われるがまま、俺は木の前に立つ。

 ……いや、待て。本当に蹴るのか?

 半信半疑のまま、俺の蹴りは遠慮がちになる。


 コンッ


 当然というべきか、木はほとんど揺れなかった。


「全然ダメね。もっと思いっきり蹴りなさいよ」

「いや、思いっきりって……」

「そんなので落ちるわけないでしょ」


 燦は呆れたようにため息をつく。

 次の瞬間、


「チェアァァァーー!!!」


 燦はその場で身体を捻ると、あり得ない勢いで足を振り抜いた。


 ドスンッ!


 鈍い音と共に木全体が大きく揺れる。

 そしてーー


 ポトッ


 狙い通りに、黒い影が木から落ちてくる。


「ね?」


 振り向きざま、燦はどこか得意げな表情で、こちらを見てきた。


「……そんなに勢いをつけてやる必要があったのか?」

「強くしないと取れないでしょ。それに、ストレス発散にもなって、気分いいわよ」


 そう言って、燦は平然と落ちて来た黒い影の方に向かう。

 

 さっきまで真剣な話をしていた人物と、本当に同一人物なのだろうか。

 少なくとも、俺の中にあった燦のイメージとは大きくかけ離れていた。


 何はともあれ、こうして俺たちは昆虫採集を再開することになった。

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― 新着の感想 ―
十話まで読ませて頂きました。 Key作品良いですよね。私も好きです。影響を受けていると仰っていた通り、作品内でも、季節や登場人物を丁寧に書いているのが感じられてとても良かったです。 ありがとうござ…
水瀬を取り巻く環境の描写と、静と動がうまいので、引き込まれました。どうして穂乃実に言っては行けないのか、他にも伏線らしきもの多く今後が楽しみです。
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