10 伏せられた言葉
「ここら辺ね」
燦が立ち止まり、目の前にある大きな一本の木を見上げる。
「これがクヌギの木よ」
俺は燦とペアを組み、昆虫採集をすることになったわけだが、燦に案内されながら、林の中を歩いていた。
どうやら俺たちは、クヌギやコナラの木が多いポイントで行うらしい。
ちなみに、これは危険度や難易度を考慮して決めたようで、楠と穂乃実は草地と林の境界付近、祐介と聡は沢沿いの林で行うと言っていた。
「樹液は……ちゃんと出ているようね」
燦が見ている先に視線を向ける。
確かに黒くて艶のある樹液がじわりと滲み出ていた。
けれど、目的であるクワガタやカブトムシの姿はない。
「あなた、虫は好き?」
木の幹に触れながら、唐突に、燦がそんな質問をしてきた。
「別に、好きでも嫌いでもないかな」
俺はクワガタやカブトムシといった虫を、知識としては知っている。でも、そこに感情が結びつかない。
以前の俺が虫を好きだったのか、それさえ分からない。
「そう、なら私と同じね。私も別に、好きでも嫌いでもないわ」
彼女は振り返り、静かに自分の意見を口にする。そして、少しだけ黙り込んだ。
「その、黙っていようか迷っていたんだけど、やっぱり最初に確認しておくわ。あなた、記憶がないんですってね」
「…………」
燦の問いかけに、俺は沈黙で肯定する。
どうして燦が知っているのか、思い当たる節は二つしかない。祐介たちか、それともまた祖母が話したのか。
「あのあと、祐介と聡に聞いたのよ」
「……そうか」
「……あまり驚かないのね」
驚いていない、と言えば嘘になる。
けれど、記憶がないことを隠していたわけではない。祐介たちと行動を共にしていれば、いずれ燦の耳に入ることも、薄々感じていた。
とはいえ、すでに知っているとは思わなかったが。
「前にも同じように、祐介と聡に聞かれたからかな。」
「……不思議ね」
燦は俺の顔をじっと見つめたまま、小さく首を傾げる。
「何が?」
「状況の理解も早いし、会話の受け答えも自然だもの。とても記憶を失くしているようには見えないわ」
「………」
恐らく、燦の言っていることは間違っていない。
俺は言葉を忘れたわけでも、常識を失ったわけでもない。ただ、自分自身に関する記憶が、ぽっかりと抜け落ちているだけだ。
実際、俺も最初は不思議な感覚だった。
以前、医師はそれを、知識として残る記憶と、体験として積み重なる記憶は別物だからだと説明していた。
どうやら、脳が処理している場所そのものが違うらしい。
「『エピソード記憶』と『意味記憶』って感じかしら。英語でいうと、そうね。『episodic memory』と『semantic memory』?」
「……詳しいんだな」
「少しだけね。昔本で読んだことがあったの。ただ、実際に記憶喪失の人なんて、初めて見たけど」
そう言って、燦は俺から視線を逸らした。
それから何かを思い出したように顔を上げると、真剣な口調で話し始める。
「それと、もう一つだけ、あなたに言っておかなきゃいけないことがあるわ。」
「……なんだ?」
「穂乃実のこと。前に、『神社の幽霊の噂』とか、『五年に一度、人が死ぬ』ことについて話したでしょ?」
「ああ。」
燦が小さく息を吐く。
「あれ、穂乃実の前では絶対に口にしちゃダメよ」
「……理由を聞いてもいいか?」
「それは……いや、今は言えないわね。また別の時に、機会があったら話すことにするわ」
「……分かった」
正直、気になる。どうして穂乃実に話してはいけないのか。それに、穂乃実はその噂を知らないのだろうか。
けれど、燦の表情を見る限り、これ以上聞いても答えてはくれなそうだ。
そうして俺たちの間に、しばらく沈黙が流れる。
「……あ」
不意に、燦が木の上の方へと視線を向けた。
「いた」
俺もつられて見上げると、木の上の方ーーそれもよく見つけられたなという場所で、1匹の黒い影が樹液を吸っていた。
「この木、蹴ってもらえる?」
「……え?」
突然の言葉に、思わず聞き返してしまう。
「いいから、早く」
言われるがまま、俺は木の前に立つ。
……いや、待て。本当に蹴るのか?
半信半疑のまま、俺の蹴りは遠慮がちになる。
コンッ
当然というべきか、木はほとんど揺れなかった。
「全然ダメね。もっと思いっきり蹴りなさいよ」
「いや、思いっきりって……」
「そんなので落ちるわけないでしょ」
燦は呆れたようにため息をつく。
次の瞬間、
「チェアァァァーー!!!」
燦はその場で身体を捻ると、あり得ない勢いで足を振り抜いた。
ドスンッ!
鈍い音と共に木全体が大きく揺れる。
そしてーー
ポトッ
狙い通りに、黒い影が木から落ちてくる。
「ね?」
振り向きざま、燦はどこか得意げな表情で、こちらを見てきた。
「……そんなに勢いをつけてやる必要があったのか?」
「強くしないと取れないでしょ。それに、ストレス発散にもなって、気分いいわよ」
そう言って、燦は平然と落ちて来た黒い影の方に向かう。
さっきまで真剣な話をしていた人物と、本当に同一人物なのだろうか。
少なくとも、俺の中にあった燦のイメージとは大きくかけ離れていた。
何はともあれ、こうして俺たちは昆虫採集を再開することになった。




