第三十三話 歪みを、測る算法
遠征準備の本丸は、技術だった。
深度九十九層から下――「測定不能領域」。
技術院の三十年の観測が示すのは、そこが高濃度の魔力によって、空間そのものが歪む場所だということ。
長さが、場所によって伸び縮みする。ある一歩は一メートルで、次の一歩は一・一メートルかもしれない。基準そのものが揺らぐ場所では、普通の計測は、定義からして成立しない。
この難題に挑むのが、ヴェラとエリオット――魔導計測と、学統数学の、二本柱だ。
「率直に言おう。不可能だ」
研究室の初日、エリオットは黒板に一本の線を引いて、断言した。
「長さの基準が場所ごとに変わるなら、測るという行為の前提が崩れる。物差しが伸び縮みするのに、どうやって物差しで測る?」
「いいえ、可能です」ヴェラが、藍色の髪を掻き上げて、隣に別の線を引いた。
「発想を、逆にすればいい。伸び縮みする物差しを嘆くのではなく――伸び縮みの『量』そのものを、測ればいいのです」
「……何?」
「私の探査術式は、その場の魔力濃度を数値化できます。そして魔力濃度と、空間の歪みには、相関がある。……つまり、こう。まず魔力濃度で『この地点は、基準より何パーセント伸びているか』を出す。次に、その補正率を、手動の計測値に掛け戻す。物差しの狂いを、狂いの分だけ、後から引き算する」
エリオットの、チョークを持つ手が、止まった。
「……第十四話の湿度補正と、同じ構造か。環境の狂いを、環境の測定で補正する」
「ええ。あなたが手順書に書き込んでくれた、あの補正式。あれの――空間版です」
二人の目の色が、変わった。そこからの二月は、俺が口を挟む隙もなかった。ヴェラの魔導計測とエリオットの数学が、火花を散らしながら噛み合っていく。魔力濃度の測定精度を上げれば補正の精度が上がり、補正の数式を洗練させれば必要な測定点が減る。
魔法と学統、二年前なら決して交わらなかった二本の柱が、一本の算法に編み上がっていった。
完成した計算法に、二人は名前をつけた。
『歪み補正計測法』――通称、二人の頭文字を取って「VH式」。
試しに、俺のスキルで検証してやった。
俺の【森羅計量】は、歪んだ空間でも「真の値」を視られる――はずだった。だが試験用に技術院が用意した、微弱な歪みを起こす魔導装置の中で計測してみて、俺は少し、ぞっとした。
「……ヴェラ。エリオット。ひとつ、共有しておく」
「どうしました、師匠」
「この歪み装置の中だと、俺のスキルの数値が……揺れる。真の値が、視えにくい。歪みが強いほど、俺の目も、引きずられるらしい」
二人が、顔を見合わせた。エリオットが、慎重に言う。
「つまり……深度百層の本物の歪みの中では、貴様のスキルは、当てにならない可能性がある、と」
「ああ。認めたくないが、その可能性は、勘定に入れておくべきだ。……皮肉なもんだな。世界のすべてを測れるはずのスキルが、世界でいちばん測りにくい場所で、いちばん頼りなくなる」
だが、と俺は続けた。囲炉裏の火みたいに、静かに、確信を込めて。
「だからこそ、VH式が要る。俺の目が狂っても、魔力濃度の測定と、数式の補正と、手動の計測は、狂わない。……基準と手順は、俺が死んでも残る。俺のスキルが使えなくなっても、残る。お前たちの算法は、そういうものだ」
ヴェラが、藍色の髪の下で、静かに頷いた。エリオットは、この日はじめて、俺の言葉を、書き留めた。手順書の余白ではなく、自分の手帳に。
ヴェラが、分厚い計算書を差し出した。「ですが師匠、これはあくまで机上の話。本当に歪む場所で通用するかは……行って、試すしかありません」
「ああ。だが、机上でここまで詰めた算法だ。現場で崩れても、崩れ方から次が見える。――上等だ。人と、金の目処が立ち次第、行くぞ」
その夜、エリオットが一人、研究室に残って、完成した計算書の表紙を、じっと見ていた。俺が声をかけると、彼は珍しく、素直な声で言った。
「……院の老人たちは、魔法と測量を混ぜるなと言った。『学統が穢れる』と。だが、これは……美しい。魔法の測定と、数学の補正が、こんなに綺麗に噛み合う。……ロイド。私は、院を出て、正しかったんだろうか」
「出てない。兼務だろう。……お前は院を出たんじゃない。院と、うちを、繋いだんだ。VH式が、その証拠だよ」
エリオットは、答えなかった。ただ、眼鏡を外して、それを、いつもの動揺のときとは違う、静かな手つきで、拭いた。




