第三十一話 眼鏡の入門志願
翌朝。ギルドの王都出張所(開所したばかりで、まだ木の香りがする)の戸口に、その男は立っていた。
徹夜明けの顔に、銀縁眼鏡。小脇には、自筆の写本の束。エリオット・ハウザーは、姿勢だけは完璧なまま、絞り出すように言った。
「――入門を、志願する」
「……理由を伺っても?」
「昨日、生まれて初めて、負けた。それも、答えにではない。手順に負けた。私は二十年、選ばれた者の目と数学を磨いてきた。その私の単一の答えより、市場の娘の『揺れ幅ごと量る』手順のほうが、川の真実に近かった。……ならば私のやるべきことは一つだ。学統に、手順を接ぎ木する。そのために、基礎から学ぶ。錘の校正と、手順書の暗唱からだと聞いている。やる」
「測量院は、どうするんです。筆頭測量官でしょう」
「院長と談判してきた。兼務だ。院の看板は下ろさん。下ろしてたまるか。私は院の人間として、貴様らの手順を学び、いずれ院の学統と統合してみせる。……計量と測量が別々の看板を掲げている限り、この国の『測り』は片肺だ。違うか」
違わない。むしろ、俺が三年先に言おうと思っていた台詞だ。
「談判は、揉めたでしょう」
「揉めた。老測量官どもは『二百年の恥』と喚いた。だから言ってやった。――『では百年前、経緯儀という新式を外国から取り入れたのは恥だったのか。学統とは、正しいものを取り込み続けた記録のことだ。取り込むのをやめた学統は、ただの骨董だ』とな。……最後は院長が笑って、判を捺した。『行って、全部盗んでこい』だそうだ。ご期待に、応えるつもりだ」
「――入門を認めます。ようこそ、計量ギルドへ」
「先輩になるのはあたしだからね! 敬語ね!」ミアがずいっと出る。既視感のある構図に、ヴェラが遠い目で呟いた。「……ミア先輩、それ、私のときと一句同じです」
「はい、ミア先輩。ご指導お願いします。……ただし市場巡回の際の歩幅は、もう少し規則的に願いたい。計測記録の時刻が乱れ――」
「入門初日から先輩に注文つけた!?」
騒がしい朝になった。そしてこの入門は、思わぬ速さで実を結んでいく。
半月後、測量院とギルドの共同で「国家測量計量資格」の制度設計会議が発足。テオの一級迷宮計測士試験の日程も決まった――実地試験官の欄には、皮肉のきいた人選で、エリオットの名がある。
そして月末の囲炉裏端。恒例の集計(ギルド員七十九名、拠点三、公共計量所・着工)を読み上げた俺のところへ、技術院総裁が、ふらりと現れた。老学者は茶を一口すすり、世間話のように、切り出した。
「時に、ロイド君。わしが昔、走り書きで送った件……ゼルガ大迷宮の、測定不能領域。あれから、眠れる夜は増えたかね」
「いえ。おかげさまで、俺も眠れない側に回りました」
「はっは。結構、結構。……で、いつ行く」
囲炉裏端が、しんとなった。全員の目が、俺に集まる。俺は、ずっと胸の底で温めてきた数字を、初めて声に出した。
「二年後。深度百層、完全測量遠征。必要なのは、資格を持った計測士と、深層で戦える相棒と、歪みごと測る新しい計算法と――先立つもの、ざっと金貨三百枚。今夜から、三本柱で準備を始めます。人、技、金」
柱の中身は、もう頭の中で線が引いてある。人、一級資格者を二十名。テオの一級試験が、その第一号だ。深層の護衛には、心当たりが一組ある。
謹慎明けの、王国最強の三人組が。技、九十九層から先の「測定不能」の正体は、高濃度の魔力が空間そのものを歪める領域だと、技術院の観測は示している。
長さが場所によって伸び縮みする場所を測るには、歪みの分だけ補正して測る、新しい計算法が要る。
ヴェラとエリオット、魔導計測と学統数学の二本柱で挑ませる(本人たちにはまだ言っていない。言ったら二人とも、今夜から寝ないだろうから)。
そして金、公共計量所の基金と分けて、遠征基金の帳簿を今夜起こす。
「よろしい。では初穴として、わしの私財から金貨二十枚、出資しよう。……三十年来の不眠の原因をな、君が測ってきてくれ。わしの寿命が尽きる前に、頼むぞ」
「承りました。総裁の残り寿命込みで、工程を引きます」
「言うようになったわい!」
笑い声の中、テオが握った聞き棒が、囲炉裏の火を照り返して、静かに光っていた。世界でいちばん深い場所への遠征が、この夜、動き出した。




