第二十八話 第一種目・裂け谷
大会初日。会場は王都の北、「裂け谷」と呼ばれる大峡谷である。
観客は崖沿いの安全柵の内に鈴なり、審判長は技術院総裁。
白髪痩身の老学者は開会の辞で「本日競うは、優劣に非ず。測りの未来である」と述べ、会場を沸かせた。第一種目の課題は単純にして苛烈――この谷の、指定地点の深さを測れ。制限は二刻。降下は禁止。
答え合わせは、百年前に王家が命懸けの実測で残した秘蔵の記録による。
測量院の布陣は、学統の粋だった。ベルナルド――岩のような巨漢だ――が対岸との間に寸分違わぬ基線を張り、真鍮の経緯儀が据えられ、エリオットが接眼鏡を覗く。俯角と基線から谷底までを三角法で解く、教科書の完成形。セシルの計算の筆が、流れるように走る。
うちの三人は、三本立てで挑んだ。テオの錘付き細索――だが索は百五十メートルで岩棚に触れ、底まで届かない。
届かないこと自体は想定内で、棚までの百五十メートルという「確かな一点」が取れたことが収穫だ。ヴェラの魔導距離術式は封をして待機。そして本命が、反響法だった。規定重量の石を落とし、着底音までの時を、テオが聞き棒を岩盤に当てて聞き取る。
一度目の計測。テオは崖縁に膝をつき、ドガの聞き棒を岩肌に当て、目を閉じた。石が落ち、風が鳴り、遠い水音――そして、こつん、という乾いた音。テオの指が時を刻み、記録板に数字が載る。ここまでは、稽古通り。
――そのテオの手が、二度目の計測で、止まった。
「……音が、変です。反響が、二段になってる」
客席の俺にも、緊張が伝わった。二段の反響。一段目を着底と誤読すれば、深さは大きく浅く出る。逆に二段目が岩壁の跳ね返りなら、深く出過ぎる。どちらを採るかで、勝負が決まる。テオは聞き棒を握り直し、隣のミアを見た。――俺を見る癖は、もう、直っている。
ミアは目を閉じて、三度目の落石の音に、市場で鍛えた耳を澄ませ――にっと笑った。
「棚だよ、テオ。索が触れた、あの岩棚。一段目は棚に当たった音、二段目が底。……風の音も二段になってるもん。谷はでっかい樽。樽の中に、棚が一枚入ってるだけ」
「――採ります。二段目を底と判断。理由、索の実測百五十メートルの棚と、風音の二層構造。以上を記録します」
テオは自分の声で決め、理由を先に書き、それからヴェラの封を開けて突合した。三法の数値が、幅の中で重なる。提出値、三百二十七・九メートル。
測量院の提出値、三百二十六・八メートル。
そして開示された王家の実測記録――三百二十七・〇メートル。
「第一種目! 誤差〇・二メートルの王立測量院を、勝者とする!」
場内が沸き、うちの応援席(ザラたちと、なぜか乾物屋の主人まで来ていた)から悔しげな唸りが上がった。
誤差〇・九対〇・二。完敗ではないが、明確な負けだ。壇上のエリオットは勝ち誇りもせず、経緯儀を丁寧に仕舞いながら、一言だけ言った。
「――これが、学統だ」
客席で、俺は膝の上の拳を、ゆっくり開いた。いい負け方だった。
負けの原因が、判断も含めて全部、記録に残っている。記録に残った負けは、次の勝ちの設計図だ。……それにしても、あの経緯儀の精度と、エリオットの目。本物だ。二百年は、伊達じゃない。
撤収の際、エリオットが、うちの陣地の前で足を止めた。視線の先は、テオの記録板。
「……二段の反響で、二段目を採った判断。誰の指示だ」
「じ、自分です。観察の根拠はミア先輩ですが、採ったのは、自分の判断です。理由も、書いてあります」
エリオットは記録板を一瞥し、眼鏡の奥の目を、僅かに細めた。
「誤差〇・九。惜しかったな。棚の反響の補正を一段深く読めば、〇・三まで詰められた。……次の種目で、その判断力がまぐれか実力か、検分させてもらう」
去っていく濃紺の背中に、テオは深く一礼して――顔を上げたときには、闘志の目になっていた。負けて、燃える。良い競技者の顔だ。
控えに戻った三人に、ミアが真っ先に言った。
「よし、切り替え! 次、川! 川はねえ――あたしの庭だから」




