第十六話 赤い帳簿
ドガを送り出して十日後、テッサから最初の文が届いた。代筆は弟、署名は岩のような拇印。読み上げるテオの声が、途中から硬くなった。
『師匠殿。着いて早々、妙な具合だ。町にはグラム商会の出店が三軒もできていて、「秤の校正、無料で承ります」の幟が立っている。無料だ。うちが銅貨五枚でやる仕事を、タダで。町の衆は「わざわざ銅貨を払う理由がない」と言う。もっともだ。俺が山の親方衆に崩落予測の話をしても、「商会さんが、あの手の計測は眉唾だと言っていた」と、渋い顔をされる。……先回りされていた。だが、諦めん。まずは山に、日参する』
「無料……! 師匠、あいつら、儲け度外視で潰しに来てます!」
「ああ。しかも上手い。無料の校正なんて、狂った秤を『狂ったまま、お墨付きを付けて返す』だけでいい。元手はほぼゼロ、うちの信用と商売だけが削れていく」
そして攻勢は、テッサだけではなかった。
同じ週、メルガ本部でも異変が続いた。まず、量産を支える金工職人が二人、突然辞めた。聞けば、王都の工房から「月に銀貨九十枚」で誘われたという。
相場の三倍――職人が家族を養って月に銀貨三十枚、およそ庶民の三月分の暮らし賃の世界で、三倍だ。断れという方が酷である。親方は「儂は残る」と唾を吐いたが、残った職人の目にも、動揺は隠せない。
さらに、王都と近隣三都市で、商会系の計測業者が一斉に値を下げた。建物の耐久検査、荷の検量、井戸の深さ測り。うちが銀貨二枚の仕事を、銅貨五十枚――四分の一の値で請け負い始めたのだ。
辞めた職人のうち一人、若いカイは、荷物をまとめた夜、工房の裏で俺を待っていた。うちで二年、削りの腕を上げた男だ。提灯の灯りの下で、彼は深く頭を下げた。
「師匠……すんません。断れなかった。女房の腹に、二人目がいるんです。月に銀貨九十枚あれば、上の子を学校にもやれる。……ここの仕事は、好きでした。削り粉を量る、あの手順も。けど」
「謝るな、カイ。家族を量りに載せたら、そっちが重い。当たり前だ。……ひとつだけ約束してくれ。向こうで何を作らされても、目方をごまかす仕事だけは、手順を知ってるお前の腕で、断れ。断れなくなったら、いつでも戻ってこい。席は、空けとく」
カイは唇を噛んで、もう一度、深く頭を下げて、夜道に消えた。引き抜きってのは、金で人を買うことじゃない。人の一番弱くて、一番まっとうな場所を、正確に量って撃つことだ。
バルサック、あんたの計量の腕は、認めてやる。胸糞は悪いがな。
月末。俺は帳簿の前で、長いこと動けなかった。
収入。計測依頼、前月比六割減。標準錘の売上は国家事業の枠で保たれているが、入金は納品の二月後だ。
支出。偽錘の無償交換費、これまでに金貨六枚。テッサ支部の立ち上げ費、金貨十枚。職人の引き留めに上げた工賃。
……差し引き、今月の赤字、金貨四枚。来月の給料支払いに要る金は金貨三枚。金庫の中身は――銀貨四十七枚。金貨に直せば、一枚に満たない。
インクが尽きかけたペン先みたいな数字だった。
俺は生まれて初めて、数字を視るのが怖いと思った。
可笑しなものだ。追放された夜、俺は自分一人の値段の話をしていた。
四分割の報酬がどうの、無能がどうの。あの頃の帳簿は、俺一人が飢えるかどうかの帳簿だった。今、目の前の赤い数字の向こうには、四十人の顔がある。
テオの初任給、ミアの筆頭手当、職人衆の工賃、テッサで奮闘しているドガの支部の運営費。人を抱えるってのは、人の暮らしの目方を、自分の秤に載せることなんだと、赤字になって初めて、本当の重さで分かった。
「……師匠。今月の、給料のことなんですけど」
戸口に、ミアが立っていた。いつからいたのか。跳ねるおさげが、今日は湿って重たい。俺は帳簿を閉じ損ね、彼女の目は、開いたページの赤い数字を、まっすぐに見ていた。
「隠しても無駄だよ。あたし、市場部門筆頭だよ? 金庫の音で残高が分かるんだから」
「……すまん。正直に言う。今月の給料が、払えないかもしれない」
言ってしまってから、俺は頭を下げた。十九人の入門から二年、初めて吐いた、経営者として最低の台詞だった。
ミアは、しばらく黙っていた。それから、くるりと踵を返した。
「分かった。ちょっと待ってて、師匠」
――待っていろと言われて、俺は知らなかった。この夜、ギルドの若い衆の間を、一枚の回覧が回っていたことを。




