第9話 上書きの夏休み⑤
「つまり、こういうパターンの問題ではこの公式を適用して、こんなふうに解くのがスピードの面で――」
島崎琴音の傍らには、母親の麻美がつけた若い家庭教師が座り、二人は机を並べて勉強をしていた。
家庭教師は麻美の言葉通り東大出身の男で、知的でありながら偉ぶることもなく、容姿も端麗だった。
一見地味に見えても、密かに女性にモテそうなタイプだ。
(なんでさっきから、さりげなくくっついてくるわけ……)
単に教えるために仕方なく近づいている――そんなレベルを越えていた。
琴音に質問を投げかける時、目を合わせて微笑む。
体全体を動かして肩や足を少しずつ接触させる。
さらには間違えた問題の解き方を教えると言って、その必要もないのに背後から密着してくる。
まるでバックハグでもするかのように。
(セクハラのラインを越えるか越えないかの距離ってことね……)
もしこれが天然ならそれも最悪だし、故意ならなおさら質が悪い。
いずれにせよ、琴音にとって不快な接触であることには違いない。
以前からその美貌ゆえに、こういう手口で近づいてくる男たちは一人や二人ではなかった。
(藤森くんはこんなことしないのに)
もちろん大輝も、琴音に好意を寄せた男の一人だ。
隠す気がなかったかのように、駆け引きもせず馬鹿正直に告白から入ってきた。
しかし大輝は、こういう類の身体接触を一切してこなかった。
もし誤って触れても「ご、ごめん!」とすぐに謝ってきた。
謝られる琴音のほうが気まずくなるくらい慌てふためきながら。
(やっぱり植物園デートの時、思わず手を振りほどいたのが間違いだったかな……)
きっと大輝は少しずつ進展したかったのだと、琴音は今更ながら気づいた。
恋人関係ならそれが普通だから。
琴音も別に大輝と進展したくないわけではなかった。
ただあの時は心の準備ができていない状態で、慣れない男の人の手に驚いてしまったのだ。
(だからって私から手を繋ぐのもあれだし、正直なところ安く見られるのも嫌だし……)
どうすればいいんだろう?
二学期はもう目前だ。
夏休みの間、彼氏との楽しい思い出は一つも作れなかった。
(一緒に夏祭り行こうって言ったくせに……)
嘘つき。
琴音は思わず口に出した。
「ん? 何か言った?」
「あ、いいえ。なんでも」
「そう? でも全然集中できてないね。少し休憩しようか?」
「……はい」
琴音は部屋の外にいる使用人に頼んで、簡単な茶菓子を持ってこさせた。
テーブルの上にマカロンと紅茶が手際よく用意された。
家庭教師は紅茶を一口含んで、スマホで写真一枚を見せてきた。
「ここ、最近インスタで流行ってる店なんだけど、どう?」
「素敵ですね。料理も美味しそうですし」
「でしょ?」
琴音は画面を一瞥もせず、機械的に答えた。
家庭教師の機嫌を損ねないように振る舞っただけだ。
しかし家庭教師は、そんな琴音の反応を見て確信に満ちた表情を浮かべた。
「今日の授業が終わったら、一緒にここ行ってみない? 車で送るから、手ぶらで大丈夫だよ。ついでにドライブもしてさ」
にっこり笑いながら、堂々と琴音を口説く家庭教師。
女泣かせのその笑顔が、琴音にはただ陰険に映るだけだった。
「申し訳ありませんが、遠慮しておきます」
家庭教師は予想とは違う答えに少し戸惑ったが、努めて平然とした表情を装った。
「そう? 今日何か予定でもあるの?」
「いえ、特に予定もありません。ただ――」
琴音が家庭教師を睨みつけた。
「私、彼氏がいるので」
家庭教師は今度こそ感情を隠せず、目を大きく見開いた。
良家のお嬢様である琴音に彼氏がいるなど、家庭教師は思いもよらなかったのだ。
「そ、そうなんだ。じゃあその彼氏も一緒に行けばどうかな? お金は僕が全部出すし。琴音ちゃんもこういう素敵なところで美味しいご飯食べたいでしょ?」
琴音は家庭教師の意図を瞬時に見抜いた。
車と高級レストランで財力を誇示し、大輝を圧倒する。
琴音に二人を比較させようという魂胆だ。
(本当に気持ち悪い男)
大輝の足元にも及ばない。
お母様は本当に男を見る目がないと、琴音は改めて思った。
「芹澤さん、私はあなたが嫌いだと言っているんです。食事のお誘いは母に言ってみたらどうです? 母なら快く応じるかもしれませんね。私は私の彼氏とご飯を食べに行きますので」
「い、いや、彼氏がいても食事くらい普通に行くだろ? 社会に出れば彼氏以外の男と食事する機会なんていくらでもあるんだから」
「芹澤さんがどれだけ私のことを安い女だと見くびっているか、よく分かりました」
「いや、そういうんじゃなくて!」
「では今まで家庭教師のお仕事、お疲れ様でした、芹澤さん」
琴音は席を蹴るように立って部屋の外に出た。
一人部屋に残された家庭教師は呆然とした。
「俺、芹澤じゃなくて芦澤なんだけど……」
◇
その日、家庭教師はすぐにクビになった。
「そうは見えなかったのに、男ってやつはまったく……」
麻美はため息をついて家庭教師を非難した。
最後まで、自分を省みることはなかった。
琴音はそんな母親を冷ややかな目で見つめた。
「今度は新しく女性の先生を探すから、そう思っておきなさい」
「はい。あの、ちょっと出かけてきます」
「勉強もせずに、どこへ?」
「……さっきあんなことがあったじゃないですか。散歩して気分転換しないと、勉強にも集中できそうにないので」
「そう、それならまあ」
家庭教師の一件は、もう琴音にとってはどうでもよかった。
だから単に外出許可をもらうための方便に過ぎなかった。
目的は大輝。
(そうだわ、私が直接誘わなければいいんだわ)
確かに前回、手を繋ごうとした大輝の手を振り払ったのは自分のミス。
今回は夏祭りに、琴音から誘うことに決めた。
幼馴染の陽菜を経由する形で。
(陽菜が私と大輝を呼んで、途中で陽菜が抜けてくれればお祭りデートになるんだから)
我ながらいいアイデアだと、琴音は思った。
あとは実行に移すのみ。
家を出た琴音は、陽菜が住む本城家の一戸建てに向かって足を運んだ。
同時に陽菜に電話をかけた。
◇◇
「おお、ここが東京!」
電車を降りるなり、陽菜がキョロキョロと辺りを見回して感嘆の声を上げた。
正直、俺たちの住んでいる場所もそこまで田舎というわけではないが、東京の規模には到底及ばない。
「人がめちゃくちゃ多いね! 駅の構造もすごく複雑だし! 高層ビルばっかりで空が全然見えないよ!!」
「陽菜は東京、初めてなの?」
「うん! 沖縄や京都は行ったことあるんだけど、何だかんだで東京に来る機会はなかったんだよね」
少し強行軍にはなるが、今住んでいる町を朝早くに出れば、東京へ日帰りで行くのも無理な話ではない。
とはいえ、やはり国内旅行といえば東京よりは北海道や京都、沖縄が定番だろうしな。
「ここが大輝の住んでた街?」
「いや、乗り換えてすぐそこだよ」
「えぇー、また電車?」
座るどころか、寿司詰め状態の満員電車にすっかり参ってしまったようだ。
「ちょっとだけ我慢して。もうすぐ着くから」
「何だかそれ、登山で『もうすぐ頂上だよ』って嘘つく人みたいじゃない?」
「いや、本当にすぐそこだって」
陽菜が疑わしげな眼差しを向けてくる。
満員電車でもみくちゃにされていた時から『もうすぐだよ』と言い続けていたのが、裏目に出たらしい。
東京に慣れている俺と、初めて訪れた陽菜とでは、感覚に差があるのかもしれない。
「でも、さっきのはすごく良かったよ!」
「さっきのって?」
「電車の中で壁ドンみたいに守ってくれたやつ! 少女漫画みたいで、めちゃくちゃドキドキしちゃった!!」
別に狙ったわけではなく、陽菜が苦しくないようにと気を遣っただけなのだが、意外なところで高得点だったようだ。
苦笑いしながら冗談めかして言った。
「それなら、もっと満員電車に乗ってもいいってこと?」
「いや、それは嫌!!」
陽菜はこれまで見たことがないほどの猛スピードで首を横に振った。




