第10話 上書きの夏休み⑥
ドキドキは別腹、辛いものは辛い、ということか。
まあ、俺としても陽菜と密着できたのは良かったが、背後からの圧力に耐えるのは骨が折れたからな。
別の路線に乗り換え、かつて俺が過ごした街へと向かう。
目的地が近づくにつれ、様々な記憶が脳裏をよぎった。
「琴音と来た時は、どんな感じだったの?」
「まあ、まず自分を満員電車に乗せたこと自体に、こっぴどく怒られたよ」
陽菜のような可愛い愚痴ではない。
それは罵倒に近い、一方的な非難だった。
今時なら、上司が部下にそんな言い方をすれば、パワハラで訴えられかねないレベルの。
「それに、俺が住んでいた場所なんて観光地でも何でもない、ただの住宅街だからさ……」
一日中機嫌の悪そうな顔をして、無言で俺を睨みつけるばかり。
満員電車での非難以外、デートらしい会話なんて何一つなかった。
一方的に責められるのを会話と呼べるなら別だけど。
「俺のことをもっと知ってほしいっていう気持ちが、結局はただの自己満足に過ぎなかったんだって、その時思い知らされたよ」
今思えば当然のことだ。
琴音は俺のことなんて、これっぽっちも興味がなかったんだ。
ただ俺が我儘を言って、付き合わせていただけに過ぎない。
「自己満足なんかじゃないよ?」
「え?」
目の前の陽菜が、俺の手を優しく恋人繋ぎにして言った。
「少なくとも私は、大輝のことをもっと知りたいと思ってるよ? むしろ大輝の方から教えてくれるなんて、すごく嬉しいもん」
「陽菜……」
まだ到着すらしていないのに、鼻の奥がツンとした。
陽菜の表情を見れば、それがただの気休めではなく本心だということが伝わってくる。
陽菜は手を離すと背伸びして、茶化すように俺の頭を撫でた。
「よしよし、男の子が簡単に泣いちゃダメですよー」
「母親かよ」
「はい、ママですよー♪」
きっと、人の目がある電車内で変に目立たないよう気を遣ってくれたのだろう。
そんな陽菜の優しさに気づき、俺も冗談を返した。
だが、陽菜の冗談は次第にエスカレートしていく。
「大輝が一生懸命胸を揉んでくれたら、ママみたいに本当に母乳が出ちゃったりして?」
「いや、揉んだところで出るわけないだろ。それにこんな場所でそんなこと言うな」
「どう、大輝? 旅行の記念に、私の体を母乳が出るように作り変えちゃう?」
「どんな記念だよ!」
「二人で行って、三人で帰ってくる。これぞ、恋人たちの旅行の醍醐味でしょ?」
「恋人たちの旅行のハードル、高すぎない!?」
陽菜のとんでもないボケにツッコミを入れているうちに、思わず声が大きくなってしまった。
……結局、車内の他の乗客から白い目で見られる羽目に。
◇◇
本城陽菜と藤森大輝は、目的の駅で降りてから五分ほど歩いた。
歩けば歩くほど、陽菜の目はみるみる丸くなっていく。
一目見てそれと分かる、広大で洗練された邸宅が軒を連ねていたからだ。
「大輝はこんなところに住んでたの?」
「あぁ、一応ね」
従姉妹の美咲から聞いてはいたが、いざ目の当たりにすると陽菜は圧倒された。
東京でも屈指の高級住宅街。
時折通り過ぎる車も、決まって高級外車ばかりだ。
「すごく静かな場所だね」
「そうだね。大人たちは静かでいいって言ってたけど、俺は静かすぎて嫌だったこともあるかな」
「そうなの?」
陽菜には、大輝がどこか寂しげな表情を浮かべているように見えた。
陽菜はそんな彼の腕を包み込むようにして抱きついた。
わざと感触が伝わるように、強く。
「今は私がいるから、騒がしいでしょ?」
「全くだ、騒がしいよ。大人がどうして静かなのを好むのか、今なら分かる気がする」
「ひどいっ!」
ふふ、と二人は同時に笑った。
陽菜の気遣いに気づいた大輝が、彼女の頭を優しく撫でた。
陽菜は何も言わず、目を細めてその感触を楽しんだ。
「それにしても、やっぱり大輝の家は本当にお金持ちなんだね」
「……まぁ、否定はしないよ」
「あ! 誤解しないでほしいんだけど、私は大輝の家がお金持ちだから付き合ってるわけじゃないからね!」
「分かってるよ」
「私は、大輝がたとえ河川敷の段ボールの中で暮らしてたとしても好きになってたよ! ううん、一緒に段ボールに暮らすつもりだよ!」
「俺は捨て猫かよ。いや、捨て猫なら拾って帰ってくれよ。一緒に河川敷で暮らすんじゃなくてさ」
二人の会話と笑い声が、静かな高級住宅街に響き渡った。
その一方で、陽菜は大輝に対して不思議な感覚を抱いていた。
(名家の御曹司とはいえ、琴音とはずいぶん違うね)
琴音は母親の麻美の厳しい統制のせいで、大輝が去年教え始めるまでは世間知らずだった。
陽菜も幼馴染として、子供の頃に琴音に色々なことを教えようとしたのだが、麻美から威圧的な警告を突きつけられたことを覚えている。
———あなたが琴音に余計なことを吹き込むなら、琴音と絶縁させるからそのつもりでいなさい
陽菜が琴音と一緒に漫画雑誌を読もうとした時に言われた言葉だ。
その言葉に幼い陽菜は絶縁という言葉をひどく恐れ、それ以来、麻美が許した範囲だけで琴音と遊ぶようになった。
その習慣が定着してしまい、高一になるまで陽菜は琴音に基本的なことすら教えられずにいたのだ。
(大輝は、良い方に変わったよね)
初めて大輝に会った一年前、彼は実力もないくせに無駄に傲慢で、他人に命令口調で接するような人間だった。
なぜそんな人間だったのか、彼の生い立ちを知る今の陽菜なら、ある程度察しがつく。
東京の学校では、そう振る舞うのが当たり前だったのだろう。
しかし当時、そんな大輝の背景を知る由もなかったクラスメイトたちは、彼を気味悪がって遠ざけ、挙句の果てには故意に肩をぶつけたり、不慮の事故を装って机をひっくり返すなど、本格的なイジメの兆候を見せていた。
当時、陽菜も唐突に大輝から命令口調で話しかけられて不快に感じていたため、イジメに加担はせずとも、彼を避けていた一人だった。
(……大輝を変えた琴音に勝つには、私がもっと頑張らなきゃ)
それは、当時傍観していた自分に対する贖罪の意味も込められていた。
大輝は謝罪を受け入れてくれたが、心の傷はそう簡単に癒えるものではない。
ましてやまだ一年しか経っていないのだから、かさぶたにさえなっていないはずだ。
大輝が、右手に続く道を指差しながら言った。
「こっちに行くと公園があるんだけど、行く? この公園、結構雰囲気がいいんだよ。ベンチも多いから休めるし」
「いいね、行こう!」
腕を組んだまま、二人は高級住宅街の合間にある公園へと向かった。




