第11話 上書きの夏休み⑦
水車が静かに回る池から、かすかな水音が心地よく響く。
緑深い木陰の下、散歩中の犬が楽しげに舌を出してハアハアと息を弾ませている。
「本当に平和だねぇ〜」
「でも、ここ夜に来ると全然人がいなくて怖いんだよ。夜になると時々、あっちの方からサワサワって音がして……」
「えっ!? こんな高級住宅街にもお化けが出るの!?」
「お化けは別に、場所を選ばないと思うけど。むしろ金持ちに恨みがある人なんて山ほどいるだろうから、もっとたくさん出るんじゃないか?」
「ひいいっ!」
顔を青ざめさせた陽菜を、大輝が愛おしそうに眺めながら頭を撫でた。
「意外とホラー系は苦手なんだね?」
「殺人鬼とかなら、戦うか、必死で逃げるかすれば助かる気がするけど、幽霊とかは無理だよ! 目をつけられたら終わりじゃん!! だから無理!!」
「幽霊に会ったからって、必ずしも死ぬわけじゃないと思うけどな」
二人は冗談を言い合いながら公園を散策した。
やがて池のほとりにあるベンチに腰を下ろすと、陽菜がバッグから弁当箱を取り出した。
「じゃーん! 今朝作ったんだよ!」
陽菜が手作りしたサンドイッチだった。
大輝は目を丸くした。
「朝、ちょっと忘れ物を取りに帰るって言ってたのは、これを作ってたからなの?」
「うん! やっぱり女の子として、こういうのはちゃんとしたくて。大輝の料理には足元にも及ばないけど……」
「いや、十分すぎるよ。すごく嬉しい。正直、料理は得意な方がすればいいと思ってたけど、こうしてもらうと男として誇らしいというか……俺も古臭い考えなのかな?」
「いいじゃない! それを言うなら私も古臭いよ。古臭い者同士、お似合いだから問題ないでしょ?」
「そうだね」
きっと、琴音からはこんな風に何かをしてもらえることはなかっただろう。
麻美は娘の琴音が怪我をしないようにと、厨房には決して近づかせず、包丁すら握らせなかった。
陽菜はその事実をよく知っている。
大輝は半分に切られたサンドイッチを手に取り、頬張り始めた。
「あぁ、すごく美味しい。次も期待していいかな?」
「わかった! 今回は急いで作ったから質素だけど、次はもっと気合を入れて作るから期待してて!」
「陽菜と結婚したら、毎日サンドイッチが食べられるのかな。『毎朝、俺にサンドイッチを作ってください』なんてプロポーズしたりして」
「そこは味噌汁でしょ!! 私だってちゃんと味噌汁くらい作るよ! 毎日サンドイッチなんて、どんだけサンドイッチ好きなのさ!」
二人は冗談を交わしながら、サンドイッチを完食した。
それから静かな池を眺め、穏やかな時間を楽しんだ。
何も言わずに隣にいるだけで、幸福感が溢れ出してくる。
「大輝、一つ聞いてもいい? 昨日から気になってたんだけど」
「……あぁ。それを話すために、ここに来ようって誘ったんだから」
陽菜と大輝の視線がぶつかり合う。
「見捨てられたって……それ、どういうこと?」
◇◇
本城家に向かって歩きながら、琴音は陽菜に電話をかけた。
「陽菜? 今家にいるでしょ? ちょっと会えるかな? 今日バレー部の練習ない日だよね?」
「え? あ……。ごめん! 今東京にいるの」
「え? 東京? なんで?」
「家族旅行に来てて。東京ばな奈、買って行こうか?」
「う、うん……。分かった。楽しんできてね」
琴音は足を止めるしかなかった。
どうせ陽菜の家に行っても当の本人がいない。
(ほんと、うまくいかないことばっかり……)
楽しかったはずの夏休みがどうしてこうなったんだろう。
琴音がため息をついて、また自分の家に戻ろうとした時だった。
「あれ? 琴音ちゃん?」
「美咲さん?」
陽菜の従姉妹であり学校の教師である本城美咲と出くわした。
彼女とも、陽菜ほどではないが家が近く、幼い頃からよく顔を合わせていた。
琴音は美咲を親しい姉のように慕い、美咲もまた琴音を可愛がっている。
「こんなところでどうしたの?」
「あ、実は陽菜に会おうと思って来たんですけど、陽菜が東京に旅行に行ったって言うので」
「ん? 東京に旅行に行ったって?」
「え? 陽菜は家族旅行だと言ってましたけど? 美咲さんも知ってるんじゃないんですか?」
同じ本城家とはいえ陽菜とは親が違うから、家族旅行に同行していなくても不思議ではない。
しかし、陽菜が東京に行ったこと自体を知らないという美咲の反応に、琴音は違和感を覚えた。
「あ、そうそう、そういえばそうだった! ごめん、私ったら最近物忘れが激しくて。 タバコのせいかしらね。タバコって脳細胞を破壊するって言うじゃない。琴音ちゃんはタバコに絶対手を出しちゃ駄目よ?」
「はあ……」
誰が見ても慌てて嘘をついている様子。
何か隠しているのは明らかだった。
しかしこれ以上追求するには名目がない。
「じ、じゃあ学校でね! 学校ではちゃんと本城先生って呼ぶのよ?」
美咲は逃げるように琴音の前から去っていった。
どこか釈然としないものを感じたが、どうしようもない。
とにかく今重要なのは、大輝と夏祭りに行くこと。
(そう、大輝と偶然会ったふりをしよう)
陽菜がいない以上、自分でどうにかするしかない。
琴音は大輝の住むマンションへと足を向けた。
マンションの近くにいれば大輝に会えるはずだと、琴音は信じて疑わなかった。
(大輝は毎日買い物に行くタイプだから)
待ちさえすればいい。
マンションの近くにあるベーカリーに行く途中で出くわした――言い訳も準備済みだ。
大輝と会ったら夏祭りのことをそれとなく話題にして、彼が行こうと提案してくるのを「仕方ないな」と言って応じればいい。
(きっと大輝も私と行きたがってるはず)
浴衣も着ていけばきっと可愛いって言ってくれるよね?
今回こそ手を繋いで花火を眺めれば、前回の植物園デートの時のミスも挽回できるだろう。
琴音はそんな期待を胸に、前髪や服を整えながら大輝だけを待ち続けた。
しかし大輝の姿は全く見えない。
(おかしいな、買い物に行く時間はとっくに過ぎてるのに……)
琴音の知る限り、大輝はデリバリーをあまり好まない。
自炊するのを結構好む方だ。
時間が経つにつれ、琴音の胸に不安が募っていく。
◇◇
陽菜の問いかけに、なかなか言葉が出てこない。
中学三年の時の記憶が、未だに鮮明すぎる。
どう話せばいいのか――ためらいが、喉に引っかかった。
そんな俺の心を読んだかのように、陽菜が俺の手をぎゅっと握った。
「大丈夫だよ。ゆっくりでいいから、話して」
「……うん、ありがとう」
一度、大きく深呼吸をした。
誰にも明かしたことのない話をしようとすると、喉の奥がこわばる。
あり得ないことだとは分かっていても、もし今、陽菜にまで見捨てられたら――そんな不安がこみ上げてくる。
「俺の両親が離婚したことは、知ってるよね」
「うん。一昨年のことだって、聞いてたと思うけど」
「実はその時、ものすごく揉めたんだ」
離婚の過程で揉めるのはよくある話だ。
いや、揉めるからこそ離婚に至るのだと言うべきか。
ともあれ、争いの原因の一つが――
「俺をどっちが引き取るかで」
単にお互いが、自分の親権を主張したわけではなかった。
正確には、その真逆。
「お前が引き取れって、俺みたいなのは必要ないって、押し付け合ってたんだ」




