第12話 上書きの夏休み⑧
俺を目の前にして、二人は互いに指を差し合い、声を荒げていた。
その光景がよみがえるたび、息が詰まる。
――この子は藤森家の息子でしょ! なら、あなたが責任を持つべきよ! 私に押し付けないで!!
――これだけ金を注ぎ込んだのに、こいつがこんなに使い物にならない人間に育ったのは、全部お前の教育が悪いからだろ! そもそも、お前みたいな悪い遺伝子が混じったのが問題なんだ。お前が責任を取れ!!
仕事ばかりで、家庭を顧みなかった父親。
愛情のない夫と育児に疲れ、他の男と不倫した母親。
そんな両親のどちらもが、俺を捨てたがっていた。
「俺に、どっちについていくか選べって言ってきたよ。まるで、どっちが罰ゲームを受けるか決めろ、と言わんばかりにね」
「ひどすぎる……」
陽菜が、自分のことのようにしくしくと泣き始めた。
その涙が、たまらなく嬉しかった。
俺はきっと、一緒に泣いてくれる誰かを探していたのだ。
だから、必死に琴音にしがみついた。
(結局、琴音にはまた見捨てられたようなものだが……)
重要なのは、今俺の隣に陽菜がいてくれること。
俺のために涙を流してくれる彼女を、そっと抱きしめた。
陽菜の後頭部を小さく撫でながら、話を続けた。
「だから俺は、どっちも選ばなかった。俺一人で勝手に生きるから、養育費だけくれって言ったんだ」
「ご両親は、それを聞き入れてくれたの?」
「結果的にはそうだけど、俺が半ば脅したようなものだからね」
最初は俺の言葉に、二人とも当惑した様子だった。
けれど俺は、手のひらに血がにじむほど拳を強く握りしめながら、二人に叫んだんだ。
――あんたたちなんて、こっちから願い下げだ! 俺の言うことを聞かないなら、マスコミにインタビューなり何なり受けて、今の家庭の事情を全部ばらしてやるからな!!
父は企業イメージが悪くなるのを恐れて、母は政治家の親に迷惑をかけて実家から縁を切られるのを恐れて。
どちらも、必死に叫ぶ俺自身を案じてくれたわけじゃなかった。
「親相手に脅しだなんて、最低だろ、俺?」
「そんなことない! 少なくとも私は、当然の要求だったと思うよ」
陽菜が俺の胸に顔を埋めながら、首を振った。
押し当てられた顔の感触が伝わってくる。
「私は絶対に、大輝のことを見捨てたりしないから」
「陽菜……」
決して離さないと言わんばかりに、彼女が俺の背中に回した腕を、さらに強く締めつけた。
少し痛いと感じるほどに。
けれどこの痛みは、苦しくなかった。
むしろ愛おしかった。
重くなった空気を変えるため、小さく笑いながら話した。
「でも、皮肉なもんだよね。そんなことがあったからこそ、陽菜と出会えたんだから」
もし俺が逃げるように一人暮らしを始めず、東京から離れなかったとしたら、俺はあのセレブ校で今も情けないままだっただろう。
昔の俺だったら、陽菜がバレー部で孤立した時に助けよう、なんて発想すら起きなかったはずだ。
たとえ琴音には届かなかったとしても、琴音に届くためにしてきた努力は、無駄じゃなかった。
陽菜と深い仲になれたのだから。
「俺も、陽菜を絶対に見捨てないよ」
「本当に?」
「当たり前だろ」
俺の人生で、陽菜以上の人に出会えるだろうか。
単に外見の問題ではない。
立派な親という背景ではなく、純粋に俺という人間のために、身も心も捧げてくれる人はきっと陽菜の他にいない。
陽菜が、唐突に小指を差し出してきた。
「じゃあ、指切りしよう!」
「小学生かよ」
「約束するのに、小学生も何もあるもんか!」
「それもそうだな」
俺も小指を伸ばして、彼女の小指に絡めた。
絡み合う二つの小指を見つめながら、俺たちはどちらともなく微笑んだ。
◇◇
手を繋いだ本城陽菜と藤森大輝は、公園を後にして家路につくため、駅へと向かって歩き出した。
一般的な恋人同士の旅行とは言えなかったが、大輝の過去を直接聞いたという点で、陽菜にとっては十分に意味のあることだった。
陽菜は自覚していた。
客観的に見れば、自分は親友の彼氏を奪った『泥棒猫』でしかないのだと。
罪悪感がないわけではないが、それよりも、大輝の表情が日に日に明るくなっているという事実の方が嬉しかった。
(……これで琴音が本当に目を覚まして、大輝が琴音のところに戻ってしまっても、良い思い出にはなるだろうし)
陽菜も、先ほどの約束を疑っているわけではない。
しかし、人の心はいつだって揺れ動くものだ。
琴音一途だった大輝が、今ではその愛情を自分に向けていること自体が、何よりの証拠と言えた。
(それでも、私を選んでくれるように努力しなきゃ)
これまで琴音には、何をやっても勝てなかった。
おそらくバレーだって、琴音が始めれば、あっという間に部内での立場も自分を追い越していくだろう。
でも人の心は、点数で決まる試験でも、勝ち負けのつくスポーツでもない。
才能に優れていても、好きな人の心まで意のままにできるわけじゃない。
(……私としては、このまま琴音が目を覚まさないのが一番いいんだけど)
あるいは、経緯はどうあれ浮気をした大輝に、愛想を尽かすとか。
けれど陽菜は、琴音と長く過ごした幼馴染だ。
母親である麻美よりも、琴音のことをよく知っている。
琴音がこのまま黙っているはずがないと、陽菜は確信していた。
(琴音は、意外と負けず嫌いだから)
だから、アドバンテージのある夏休みのうちに、大輝の中でのポイントをたっぷり稼いでおかなければならない。
二学期になって、本格的に競争が始まる前に。
陽菜は大輝の手を、さらに強く握りしめた。
「ねぇ、大輝」
「ん?」
「さっきの話……。ひょっとして、琴音にもしたことある?」
この旅行先には、かつて琴音とも来ていた。
大輝の目的は、今と大きく変わらなかったはずだ。
自分の過去を彼女にも聞かせて、痛みを共有すること。
しかし大輝は、すぐに首を振った。
「いや……。陽菜が初めてだよ」
「本当に? 私が初めてでもいいの?」
「うん。むしろ陽菜がいいんだ。信頼してるから、陽菜なら大丈夫だと思った」
陽菜は、思わず口角が緩んだ。
(よかった、信頼してくれて)
大輝の温かな視線が、決して嘘ではないことを保証していた。
だが、その時だった。
「……ご無沙汰しております、若様」
パンツスーツを着た若い女性が、突然大輝に声をかけてきた。




