第13話 上書きの夏休み⑨
「……お久しぶりです、千尋さん」
大輝が応じると、二人の間に長い沈黙が流れた。
陽菜が大輝の方へと顔を向け、慎重に尋ねた。
「あの……、この方は?」
「あ、ごめん。なんて言えばいいのかな……。俺の祖父の専属秘書の方なんだ」
千尋が陽菜に小さく会釈した。
「初めまして、彼女さん。おっしゃる通り、会長の専属秘書です。私は若様が小さい頃、おねしょをした姿も見てきた人間ですので、若様とは決して変な仲ではありませんから、ご安心を」
「あ、はい。私は本城陽菜といいます。それに、そんな心配は別にしていません。ただ、どんな方なのかなと思って……」
「……私が若様のお相手には見えない年齢だと、そうおっしゃりたいのですか? そうですよ、どうせ女は若いのが最高なんですよ! 男たちもそう言って、今度は同じ女たちまで私を!! 同窓会に行けば、いつも私をあんな目つきで――」
大輝は、次第に早口になる千尋を「落ち着いてください」となだめた。
陽菜はそんな千尋を見て、正直かなり見苦しいな、自分は歳を重ねてもあんなふうにはなるまい、と心の中で思った。
コホン、と千尋が咳払いをして、元の様子を取り戻した。
「とにかく、お元気そうで何よりです。こんなに可愛い彼女さんも作って」
「そうでしょう? 俺にはもったいないくらいですよ」
大輝が陽菜の方に少し顔を向け、小さく笑った。
そんな様子を見て、千尋も安心した表情を浮かべた。
「ところで、おじいさんは? 千尋さんがいるということは、近くにおじいさんもいるってことですよね?」
「あちらの車で待機しておられます。若様がお会いになりたいのであれば呼びますが、どうされますか?」
陽菜は大輝の顔を慎重にうかがった。
複雑な表情を浮かべる大輝。
陽菜から見て、彼は『おじいさん』と呼ぶ会長に、決して会いたくないわけではないが、かといって手放しで歓迎しているわけでもなさそうだった。
「あの、千尋さん。私がこのようなことをお聞きするのは少し失礼だとは思うのですが……」
「どうぞ」
「その、大輝のおじい様? 会長さん? という方は、大輝のことをどう思っておられるのでしょうか?」
陽菜の問いに、大輝が驚いた表情を見せた。
千尋も同様だった。
「……本当に良い彼女さんを作られましたね、若様」
千尋が少しの間、うつむいて深く考え込んだ。
陽菜は大輝の祖父が彼を配慮してあえて車内に留まり、千尋だけを向かわせたのだと気づいた。
とっさの判断が速いうえに、心から大輝を思っている気持ちが千尋にも伝わった。
千尋が大輝を見つめながら答えた。
「会長は、若様のことについて、それほど心配はしておられません」
「そう……なんですか」
「決して若様に関心がないわけではありません。むしろ真逆です」
瞬間、暗く沈んでいた大輝の瞳に、驚きの色が走った。
「おじいさんが俺に?」
「はい。会長は若様に対する教育方針について、常々猛烈に批判しておられました。若様に相応しい教育の場はセレブ校などにはない、と」
千尋が大輝の目を見つめた。
「家の威光に頼らず、自らの光で人を導ける存在になることを、会長は若様に期待していらっしゃるのです」
「おじいさん……!」
大輝はまるで、家の中に自分の味方は一人もいないかのように、公園で話していた。
しかし、実際にはそうではない。
祖父という強力な味方が、後ろで彼を支えてくれている。
陽菜がにっこりと笑いながら、大輝を見上げた。
「よかったね、大輝」
「そうだね。陽菜にはかなわないな」
大輝が優しく、陽菜の頭を撫でた。
そんな二人を見て、千尋が舌打ちをした。
「そういうのは余所でやってください! 私の前では特にしないでください!!」
「……千尋さん、なんだか性格が変わりましたね」
「若様に言われたくありませんよ。前は私にタメ口で命令なさっていたくせに」
「それは……。今は、本当に申し訳ないと思っています」
「別に問題にしたいわけではありません。悪感情もありません。ただ――」
千尋が温かな表情を見せた。
「私もまた、若様の幸せを心から祈っているということを知っておいていただきたいだけです」
「千尋さん……」
陽菜は大輝と千尋がどんな関係だったのか、正確に把握することは難しかった。
ただ、千尋が単なる秘書ではないという事実は、おぼろげながら伝わってきた。
二人がそういう仲ではないとはいえ、少し焼きもちを焼いた陽菜は、二人の間の雰囲気に割り込んだ。
「千尋さん、私は大輝のおじい様に挨拶したいです!」
陽菜はこの際、家族公認にしてしまいたかった。
会長と呼ばれる大輝の祖父が大輝との交際を認めてくれれば、名家である藤森家の中でも、堂々としていられるはずだ。
まだ早い話だとは思いつつも、陽菜は先の先まで考えていた。
その時、白髪の老人が高級外車から降りてきた。
「ほう、なかなかに大胆な子よのう」
すぐさま大輝が、その老人を見て反応した。
「って、なんでアロハシャツ!? 今の時間なら、仕事中のはずだろ、おじいさん!?」
「ははは、夏休みだからな。ハワイにバカンスに行っておったわ! 会社というものはな、わしがいなくても回るものなんじゃ!」
「おじいさんは、そんなこと言っちゃいけない立場でしょ!!」
……なんだか親近感が湧くおじいさんで、よかったのか悪かったのか分からない、と陽菜は思った。
◇◇
突然のアロハシャツ姿の祖父に戸惑い、思わずツッコミを入れたが、ただ愉快なだけの人物ではない。
この軽さと気さくさは、徹底した仮面だ。
戦後、地方の小企業を継ぎ、世界屈指のグループにまで成長させた立役者なだけに、仮面の内側には冷徹さと、時には残酷ささえ秘めている。
陽菜が丁寧に頭を下げて自己紹介した。
「大輝と、いえ、大輝様とお付き合いさせていただいている本城陽菜と申します」
急に様付けで呼んだので、心の中で驚いた。
祖父の正体に薄々気づいたのだろう。
テレビのニュースなんかでも、グループの会長としてたまに見かけるしな。
(意外と、陽菜には打算的なところもあるからな)
祖父にできるだけ良く見せようと努力している――その気持ちが嬉しかった。
それだけ俺との付き合いを真剣に考えてくれているということなのだから。
はははと、祖父が大笑いした。
「最近の若者にしては、実に礼儀正しいのう! わしは大輝の祖父の藤森清だ。うちの大輝が大変世話になっとるな」
「いいえ、むしろ私のほうが大輝様に大変お世話になっております。あの……失礼を承知でお聞きしたいのですが、私などがこれからも大輝様のお隣にいてもよろしいのでしょうか……?」
陽菜が、らしくもなく不安な色をのぞかせた。
俺の知る限り、本城家もそれなりの暮らしをしているが、ごく一般的な共働きの専門職家庭だ。
つまり、不釣り合いだと思われて交際を認めてもらえないのではないかと心配しているようだ。
「陽菜よ、一つ問おう。お主は誰の女なのだ?」
「えっ? そ、それは当然、大輝様の女……でありたいです」
「ならば、大輝の傍におるかどうかを決めるのは、このわしなのか?」
「あ……!」
陽菜が俺の腕に絡みつきながら尋ねた。
「私、大輝様の女だよね?」
……セレブ校に通っていた頃ならいざ知らず、陽菜に様付けで呼ばれるのは違和感しかない。
それに、今の時代に俺の女だなんて。
照れくさくて、人差し指で頬を掻きながら答えた。
「合ってるけど、その様付け、やめてくれないか?」
「大輝様の命令とあらば!」
「わざとからかってるだろ?」
「あ、バレた」
冗談を言い合う俺たちを見て、祖父が豪快に笑った。
「あんなに小さかった大輝が、もう立派に自分の女を作る年になるとは、月日の流れは早いのう! わしがもう少し長生きすれば、ひ孫の顔も見られそうじゃな!」
「ひ孫の顔、たーくさん見せてあげますからね、お祖父様! 大輝、何人くらい欲しい? 私は最低でも二人は欲しいな!」
「……二人とも、すっかり意気投合しちゃって」
口ではそう言ったが、祖父も陽菜を認めたのだろう。
その事実が、この上なく嬉しかった。




