第7話 上書きの夏休み③
「琴音、夏休みだからといって、いいえ、夏休みだからこそ、決して気を許してはいけませんよ」
「はい、お母様」
「むしろ夏休みの間に、人一倍精進しなさい。東大出身の家庭教師をつけてあげるから、先生の言うことをよく聞いて、今の成績を維持しなさい。分かったわね?」
「はい、お母様」
島崎家の夕食の席。
琴音は、自身の母親であり当主でもある麻美の言葉に機械のように答えていた。
新鮮で高級な食材ばかりの和食の膳だったが、舌には何の味も感じない。
「ところで琴音、最近外出が多いようだけど、何をしていたの?」
「……ただの友達と遊びに」
「本当にただの友達?彼氏ができたわけではないでしょうね?」
琴音は麻美の言葉に、一瞬箸を止めた。
しかしすぐに動揺を悟られぬよう意識して、料理を口に運んだ。
「いいえ。彼氏なんて……いません」
「そう? ならいいわ」
麻美は娘の様子を詳しく観察した。
全身を舐めるような視線に、琴音は緊張を隠せない。
些細な変化も見逃さないほど、麻美の勘は鋭い。
「琴音、誰かを好きになる気持ちは止められないものだと分かっています。だから、それを否定するつもりはないわ」
「はい……」
「けれどね、度を越した火遊びは許されません。分かっているわね? 高校生カップルの大半は長続きしないという事実を」
「はい、もちろんです……」
麻美が箸を置き、琴音の目をじっと見つめた。
「女の処女というものは、価値が男とは根本的に違うのよ」
「あの……どういう意味でしょうか……」
「私が選ぶ婿候補の格が上がる、という話よ。一瞬の判断を誤って、自分自身の価値を落とすようなことはしないように」
「む、婿候補、ですか?」
結婚なんて、高校生の琴音にはただ遠い先の話だと思われていた。
けれど麻美は、まるで当然のことのように口にした。
しかも琴音の結婚相手を、琴音自身ではなく麻美が選ぶことを前提として。
「次期当主に相応しい相手をあてがってあげるわ。何も心配いりません。同じ轍を踏むつもりはないから」
麻美は言葉を切り、娘を見つめた。
「琴音、あなたは私とは違う。しかるべき名家のご子息と結婚することになるわ。もう向こうとも話はついているの」
「そ、そんな勝手な……!」
「勝手?」
「っ……」
麻美に睨まれ、琴音の反発しようとした心は一瞬で萎縮した。
何も言い返せなかった。
琴音にできるのは、「はい」と言わないことだけだった。
(藤森くん……)
琴音は母親の教育方針のせいで、一般的な高校生なら知っていて当然のことすら知らない世間知らずだった。
遊園地も、買い食いも、花火も、ゲーセンも、ファミレスも、バスや電車も、コンビニも、カラオケも、すべて大輝が教えてくれた。
自分も普通の女子高生であることをクラスメイトたちに示せたからこそ、陽菜以外にも友達を作ることができた。
(こんな家、もう嫌……)
家のための道具として扱われていると感じるたび、琴音の頭には大輝の顔だけが浮かんだ。
◇◇
バレー部の練習を終えた本城陽菜は、すぐには帰宅せず、体育館の裏へと向かった。
陽菜の従姉妹でバレー部顧問でもある本城美咲が、しゃがみこんでタバコを吸っていた。
「あ、不良教師発見!」
陽菜が冗談めかして声をかけると、美咲はフッと笑った。
「不純異性交遊中の生徒には言われたくないな~」
「私たちは純粋ですよ~」
「……他はともかく、二番目の彼女って時点で全然純粋じゃないんだけどな」
複雑そうな顔をした美咲の隣に、陽菜もしゃがみこんだ。
急に陽菜が髪を染めて私服の趣味を変えたのは、明らかに大輝の影響だろう。
直接聞かずとも、美咲には分かっていた。
「あんまり男に染まるなよ、陽菜」
「別に染められてないですよ? むしろ大輝が私に染まってるんですけど」
「そうかも知れないし、そうじゃないかも知れないし……」
美咲は吸い殻を携帯灰皿に入れ、タバコの箱を取り出した。
二本目を取り出そうとして——それが最後の一本だと気づいた。
「陽菜のせいで最近タバコ代がかさむよ」
「いっそやめたら?」
「それがコントロールできるなら、わざわざ中毒物質なんて言われないだろ?陽菜が大輝を好きな気持ちを止められないのと同じことだ」
「そう言われると分かりますね~」
美咲が最後の一本に火をつける様子を、陽菜は横でじっと見つめた。
「ところで美咲姉はどうしてタバコ吸うようになったの? 私の知る限り、高校までは全然吸ってなかったのに」
「……大学生の時、なんとなく彼氏に教わったんだよ」
「何それ、美咲姉ががっつり男に染まってるじゃん」
「だから私みたいになるなって忠告してるんだろうが」
陽菜がニヤニヤと笑った。
いとことはいえ血が繋がっているせいか、男に人生を振り回される——その点だけは似ているのかもしれない。
美咲は長くタバコの煙を吐き出した。
「そういえば陽菜、ちゃんと避妊はしてるのか?」
「うん、当たり前でしょ。どうせ大会のために生理のコントロールでピル飲んでるし?」
「あ、そういえばそうか……」
ということは、よく使う方のアレは使ってないということか。
ピルの方が避妊成功率が高いことは美咲も知っている。
……ただ、色々な意味でやはり陽菜は思っていたより大胆だ。
「まあ、藤森くんの家なら万が一のことがあっても、ちゃんと責任は取ってくれるだろうけど」
「え? それどういうこと?」
陽菜も、大輝の家がかなりの資産家だということは薄々気づいている。
彼が住んでいる家は高級マンションの最上階。
六人は優に住める広さだ。
そんな家を息子のひとり暮らし用に与えているのだから、彼から直接聞かずとも、その両親の財力を感じざるを得ない。
「あ……。藤森くんから直接聞いてないみたいだね」
「何それ。すっごい気になるんだけど」
「でも私も詳しくは知らないの。詳しくは知らないんだけど……。私、藤森くんの担任でもないし、藤森くんについて殆ど知らないから少し調べてみたんだよ」
「なんでわざわざそんなことするのさ」
「いや、それは……」
美咲も特に大輝の人柄を大きく疑っているわけではない。
ただ、実の妹のような陽菜が、二番目の彼女を名乗ってまで大輝の側にいようとするだけに、大輝がどんな人間なのか、もう少し知りたかっただけだった。
「とにかく、ちょっと探りを入れたら、すぐ理事長から直接呼び出されたの」
「え? 理事長に?」
「陽菜も知ってると思うけど、ウチの理事長って結構穏やかな人じゃん?でも、すっごく真剣に言われたんだよ」
美咲は陽菜を見つめて言葉を続けた。
「島崎家ですら頭が上がらないほどの名家に、むやみにちょっかいを出すな、って」
この地域で島崎家の影響力は非常に大きい。
この学園の理事長も島崎家の分家。
なのに島崎家よりずっと上の家柄だなんて、美咲には想像もつかなかった。
しかし陽菜はむしろ笑みを浮かべた。
「へえ、じゃあ私、うまくいけばそんな格の高い家のお嫁さんになれるってこと? 何それ、大輝すっごい優良物件じゃん? やっぱり私の男を見る目は全然間違ってなかった!」
「……」
美咲は、今日ほど妹同然の陽菜が遠く感じたことはなかった。




