第5話 上書きの夏休み①
俺と陽菜が結ばれたあの日、陽菜は上書きデートを提案してきた。
要するに、琴音とのデートをそのままなぞるということだ。
琴音との辛い記憶を消し去って、陽菜との楽しい思い出に塗り替える。
映画館へ向かう道中、陽菜は俺の手をぎゅっと握ってきた。
「その……手汗とか、気持ち悪くないか? 今日はちょっと暑いし」
「え? 手汗? 大輝の汗なら全然気にならないよ? むしろご褒美?」
むしろ彼女は絶対に離さないと言わんばかりに、指を絡めて恋人繋ぎをする。
これが嘘の告白と、本当の告白の違いなのだろうか。
彼女なんだという実感が、ひしひしと湧いてきた。
映画館に着くと、陽菜が尋ねてきた。
「ここで琴音は何の映画を選んだの?」
「……選んだというより、クイズ番組の回答者みたいに、琴音の正解を引き当てるまで何度も答えさせられる感じだったな」
「ふーん……そうなんだ」
陽菜はにっと笑った。
「私は大輝が見たいものが見たい!」
「いいのか? 陽菜が見たいものを選んでもいいんだぞ」
「ううん、大輝の好きなものは、私も全部好きになりたいから。大輝の映画の好みも知りたいしね」
「でも……」
俺が躊躇していると、陽菜は背伸びをして耳元で囁いた。
「それとも、ラブホに行ってエッチなお姉さんが出てくる映画でも見る?」
大人しく俺の好きなハリウッドのアクション映画を選んだ。
◇◇
重なり合う瓦屋根の下、深く伸びた軒の陰が真夏の熱気を重苦しく抑えつけていた。
手入れの行き届いた庭の向こうから、蝉時雨が波のように押し寄せる。
そんな高級感と伝統が漂う、この地域の権力の象徴である島崎本家の屋敷の中。
その一室で、腰まで届く長い黒髪の少女が、スマホを見つめたまま深い溜息をついた。
「夏休みに入ってから、一度も会えてない……」
島崎琴音のスマホには、ラインのトーク画面が表示されていた。
指を動かして上にスクロールする。
これまでのやり取りを見返した琴音の口角が、わずかに上がった。
やがて、トーク相手のトップ画をタップした。
「藤森くん……」
去年の夏休み、幼馴染の本城陽菜と一緒に遊園地に行った時の写真だった。
元気な表情でピースをする陽菜、照れながらも笑っている大輝、無表情に見えるが少しだけ口角が上がっている琴音。
大輝がチケットを三枚もらったから行こうと言い出した時は乗り気ではなかったが、いざ行ってみれば、案外楽しめている自分がいた。
琴音にとって初めての遊園地だったので、すべてが新鮮だった。
(今年の夏休みも、誘ってくれるかと期待してたのに……)
前回の植物園デート以来、彼氏である大輝から全く連絡がない。
普段ならデートの後、「無事に帰った?」とメッセージを送ってくれたはずなのに。
それすらない。
もしかして大輝がスマホを失くしたのか、それとも自分を送り届けた後に事故にでも遭ったのか。
琴音は心配のあまり、こっそり大輝の高級マンションまで様子を見に行ったが、幸か不幸か、彼もスマホも無事らしかった。
(……あの時、偶然を装ってでも声をかければよかったかしら)
付き合う前は毎月のように告白してくるほど情熱的だった大輝だ。
まさか、自分への愛情が冷めたはずがない——琴音はそう確信していた。
それなら、どうして彼は連絡を絶ったのか?
琴音には理解できなかった。
(やっぱりこういう時は陽菜に相談しなきゃ……)
自分がいつの間にか大輝を好きだと気づかせてくれたのも、大輝と付き合えるように背中を押してくれたのも、幼馴染の陽菜だ。
琴音はすぐに陽菜に電話をかけ、家に呼んだ。
◇
琴音と陽菜は幼稚園の頃から互いの家を行き来する仲だ。
それゆえ、両家とも互いの存在をよく知っている。
琴音が電話をして一時間後、島崎家の使用人に案内され、陽菜が琴音の部屋に入ってきた。
琴音は満面の笑みで陽菜を迎えた。
「コーヒー飲む?」
「うーん、いい。さっき飲んできたから」
陽菜は遠慮したが、それでも琴音は冷たい麦茶を持ってきた。
喉が渇いていた陽菜は、ゴクゴクと麦茶を飲み干した。
琴音が陽菜のうなじを見て尋ねた。
「首、何か刺された?」
「えっ?」
陽菜がびくりと体を震わせた。
そして首筋の赤く腫れた小さな跡を、慌てて手のひらで隠し、ぎこちなく笑った。
「あはは、そうなんだよ。最近、蚊が凄いでしょ? 絆創膏でも貼っておけばよかったかな」
琴音は引き出しから絆創膏を一枚取り出し、陽菜に手渡した。
陽菜は相変わらずぎこちない笑みを浮かべながら、うなじに絆創膏を貼った。
「それで、どうしたの? 藤森くんのことで相談したいって」
「そ、それがね……」
琴音が電話で言っていた用件を、陽菜が先に口にした。
すると琴音は顔を赤らめ、俯き加減になった。
「藤森くん、最近全然連絡してくれなくて……。私のことが嫌いになったわけじゃないと思うんだけど、どうしてなのかなって」
「ふーん……」
陽菜はじとっとした目で琴音を見た。
琴音はそんな陽菜の態度に内心驚いた。
いつもなら自分のことのようにはしゃいで冷やかしてくる陽菜が、今回は違ったからだ。
「私だって藤森くんの本心を全部わかるわけないじゃない」
「そ、そうだけど……」
「そんなに気になるなら、琴音から連絡すればいいだけの話でしょ?」
「そ、それはダメよ!」
陽菜は度々、琴音にもっと積極的になるよう助言していた。
罰ゲームで仕方なく嘘の告白をしようとした時も、陽菜は止めようとしてくれたのだ。
だが、琴音がその助言に従うことはほとんどない。
「私が確実に優位に立たなきゃいけないの。ここで私から連絡なんてしたら、負けを認めることになるじゃない?」
「お母様がそうしろって言ったから?」
「っ……」
琴音は陽菜の言葉に反論できなかった。
琴音の母は島崎家の当主として、一人娘にも厳格な教育を施している。
長い黒髪も、慎み深い態度も、文武両道であることも、すべては母の言いつけを守っているに過ぎない。
「だ、だって……お母様がおっしゃったもの。男性に侮られた女性は、愛されるどころか利用された末に簡単に捨てられるって。心を許した男性には、なおさら」
平凡な家柄の出身でありながら、婿養子として島崎家に入った琴音の父。
家の金で大きな事業を起こしたが、結局失敗に終わった。
その後、酒に溺れ、不自由ない生活をさせてくれている妻だけでなく、幼い娘の琴音にまで暴言を吐くようになってしまったのだ。
耐えかねた母は、愛していた夫との離婚を選んだ。
その事情を、陽菜も知らないわけではない。
ただ——
「だとしても、好きな人の前では笑えるようにならなきゃ。照れ隠しでそんなムッとした顔ばかりしてたら、相手は当然誤解するわよ?」
「わ、わかってるわよ……。でも、人に弱みを見せちゃいけないって、それが癖になっちゃって……」
「なら、せめてそれを藤森くんに説明したら?」
「だ、ダメよ! そんな弱み、藤森くんに見せたくないわ!」
相談と言いつつ、実質的には琴音の愚痴を聞かされているだけ。
琴音が大輝について陽菜に相談する時は、大抵いつもこうだ。
「琴音、そんな風に振る舞ってると、藤森くんに愛想尽かされちゃうよ?」
「そ、そんなはずないわ。陽菜だって知ってるでしょ? 藤森くんがどれだけ私のことを好きか」
「うん、よく知ってるよ。嫌っていうほど……。でもね、永遠なんてものはないんだよ?」
いつもよりずっと厳しい陽菜の口調に、琴音は彼女が別人のように見えた。
「だから……何があっても、絶対に後悔しないでね」




