第35話 決別の新学期⑧
いつも孤高で完璧だった島崎さんが、今日はひどく小さく見える。
その姿は、まるで一年前の俺自身だ。
いじらしさと、どうしようもない不憫さが胸を締めつけた。
(だめだ、心を鬼にしろ)
ここで心が揺らげば、陽菜を裏切ることになる。
チャンスを与えるってことは、島崎さんのことをこれからも恋愛対象として見続けるってことだ。
逆の立場なら、俺だって到底許せない。
「琴音さん、気持ちは分かったし、辛い中、勇気を出してくれたのも分かる。だけど、ごめん」
「どうして……」
島崎さんが唇をぐっと噛みしめた。
やがて、全く予想外の言葉を吐き出した。
「陽菜とは『二番目の彼女』から始めたじゃない。私は、二番目にさえなれないの……?」
「ど、どうしてそれを……!?」
「美咲さんに聞いたの」
いや、あの先生は一体何がしたいんだ。
陽菜に二番目の彼女を提案しろなんてとんでもない助言をしたかと思えば、今度は島崎さんにまで?
俺の中で本城先生に対する警戒レベルが一気に跳ね上がった。
俺は正直に打ち明けた。
「陽菜の時は……。琴音さんが俺を好きどころか、すごく嫌ってると思ってた。だから、やけになって受け入れた部分も大きかったんだ。でも、今はそうじゃないだろ」
陽菜は、俺をちゃんと愛してくれている。
俺も同じだ。
陽菜の『二番目の彼女』は、行き場のない俺の心のためのものだった。
今は、ちゃんと行き着く場所がある。
「それでも、変わろうとする努力は応援するよ。きっと俺みたいな奴より、琴音さんをもっと大切に思ってくれる人が現れるはずだから」
俺は手をそっと引いた。
依然として島崎さんの指先は震えていたが、俺にはその手を握り返してやることはできない。
やがて彼女がうつむいたまま、鼻をすすり始めた。
その姿に、罪悪感がじわりと込み上げてくる。
(俺を救ってくれた手を、振り払うしかないなんて……)
親に捨てられ、新しい教室でさえ疎外されていた俺の手を引いてくれた人——島崎琴音。
初恋とは何かを、努力とはどんなものかを教えてくれた人。
俺の人生を変えてくれた人。
未練ごとその場に置き去りにして、俺は非情を装って席を立った。
◇
「大輝!」
俺の住むマンションの方へ歩いていると、聞き慣れた声がした。
声の主は、飼い主を見つけた子犬のように駆け寄ると、勢いよく俺の胸に飛び込んできた。
「……ちゃんとしてきた?」
陽菜が俺の胸に顔を埋めたまま尋ねた。
どことなく、声に元気がなかった。
「ああ。ちゃんと別れようって言ってきた」
「……うん、そっか。ありがとう」
「礼なんていいよ。当然しなきゃいけないことだし」
そう、当然すべきことだ。
俺はやるべきことをやっただけだ。
島崎さんを傷つけてでも、そうするしかなかったのだ。
「夕飯どうする? うちで食べてく?」
「じゃあ夕飯も私が作ってあげる!」
「いや、もう朝と昼作ってもらっただろ。夕飯は俺に作らせてくれ。いくらなんでも三食全部任せるのは申し訳ないから」
「そう? じゃあ分かった!」
帰宅する前に、少しスーパーに寄って買い物をすることにした。
抱きつきをほどいて、スーパーへ歩き出した。
だがどうしてだろう、すぐ隣に陽菜がいるのに、今日は心に穴が空いたような空虚さを感じた。
「陽菜」
俺は腕を軽く曲げて、陽菜の方へ差し出した。
それを見た彼女が、一瞬目を丸くする。
やがて俺の意図に気づいたのだろう、嬉しそうに俺の腕へぎゅっとしがみついた。
「大輝から腕組んでって言うの、初めてかも!」
「そうか? 考えてみればそうかもな」
「今日はサービスで、もっとくっついてあげる!」
腕を通じて柔らかな感触が伝わってくる。
鬱屈した気分が、少しずつ晴れていく気がする。
気づけばスーパーに着いていた。
俺は買い物かごを手に取り、店内を見回しながら尋ねた。
「何かリクエストある?」
「うーん……なんか、かき揚げが食べたい気もするけど……さすがに難しそう——」
「分かった、かき揚げだな?」
「えっ!? 作れるの!?」
「まあ、専門店で売ってるほどじゃないけど」
俺は揚げ物が好きで、一時期レシピを調べて勉強したことがある。
マンションに廃油回収ボックスがあるため、面倒な油の処理もさほど苦にならないのだ。
陽菜が複雑な表情を浮かべて、人参をかごに入れた。
「うぅ……。せっかく一生懸命、料理の勉強をして大輝に追いついたと思ったのに……また置いていかれた感じ」
「ただ俺が陽菜より早く自炊し始めたってだけだよ。むしろ今は陽菜の方がよく料理してるんだから、俺なんてすぐ追い抜くさ」
「そうかな? そうだよね? うん、大輝をブクブク太らせるために努力する!」
「だからって肥満にさせるなよ」
中三の離婚騒動のせいで、しばらくは食事もろくにのどを通らず、ひょろひょろの低体重だった。
そして高一の時に島崎さんと出会い、そんな自分を変えたくて運動を始め、同時に料理も覚えて、今の標準体重まで戻した。
今の俺を形作っているものの中で、島崎さんの占める比重は大きい。
――そう思った瞬間、胸がずきりと痛んだ。
「陽菜」
「ん?」
食材の会計を済ませ、マンションへ向かう道すがら。
レジ袋の取っ手を、ふたりでひとつずつ持ちながら言った。
「今日、泊まっていってくれる?」
またしても陽菜の目が丸くなった。
それも無理はない。
俺から彼女を抱きたいと言ったも同然なのだから。
「うん、もちろん! じゃあ朝そのまま一緒にご飯食べて登校すればいいね?」
「そうだな。遅刻しないように気をつけないとな」
「え~? どうして遅刻しそうだと思うのかな~?」
クスクスと、陽菜が意地悪く笑った。
◇
「じゃあ電気消すよ」
「うん」
ベッドサイドランプの電源を切った。
真っ暗になった深夜の寝室で、俺は隣に横たわっている陽菜の体を腕で抱き寄せた。
すると彼女も、俺の胸に体をぴったりと寄せた。
「なんだか今日の大輝、すっごく積極的だね」
「……そう? 嫌だった?」
「ううん、よかった。やっぱり私、大輝に無理やりされるの好きかも」
「そう? じゃあ明日の朝も今日みたいにしようか?」
「明日の朝もすでに予約済みって前提!?」
ぷはっと、陽菜が吹き出した。
「まあ、全然構わないけど。大輝の旺盛な性欲を全部受け止められるのは私だけだし?」
「全部受け止めるなら、学校でも常に俺の横にいなきゃ駄目そうだな?」
「まだ出し切ってないの!? 大輝の性欲どうなってんのよ!!」
俺としては普通だと思うんだが……よく分からない。
陽菜が俺の胸板をいたずらっぽく人差し指でくすぐりながら言った。
「でも私は大輝が呼べばすぐ飛んでいくから構わないけど? むしろ学校でスリル満点でするの、ちょっと興味はあるし」
「陽菜の性欲も相当なもんだよ、やっぱり」
「大輝が見てる薄い本みたいに、教卓の下でこっそり——」
「いや、それがバレないわけないだろ」
ファンタジーの極致たる薄い本を現実で真似したら、停学じゃ済まない気がする。
のんびりと会話をしているうちに、ふわぁっと睡魔が襲ってきた。
明日は学校もある。
本当にそろそろ寝なきゃ——そう思ったとき。
「あのね、大輝」
「ん?」
「今日、琴音と何かあったでしょ?」




