第32話 決別の新学期⑤
「説明してください。『二番目の彼女』って、どういう意味ですか?」
昼休みの相談室。
美咲は琴音の問いに即答することができなかった。
(いつかこうなるとは思ってたけど……)
自身の失言が引き金になったのは確かだ。
だが、これは遅かれ早かれ露見するはずの事実でもあった。
いつまでも隠し通せる話ではない。
それに陽菜は実の妹のような従妹だが、琴音もまた同じくらい大切に思っている。
何より、二人とも教師として平等に接すべき生徒だ。
「一応言っておきますけど、美咲さんを恨むつもりはありません。これはあくまで私たち三人の問題ですから。美咲さんは……巻き込まれただけですよね」
琴音が深く頭を下げて、言葉を継いだ。
「それでも、教えてください。私、当事者なのに何も知らないままなんて嫌なんです。お願いします」
「琴音ちゃん……」
美咲は知っている。
母親である麻美の影響もあるだろうが、琴音はそもそも高い矜持を持って生まれた子だ。
そんな彼女が、自分を曲げてまで必死にすがっている。
(藤森くんも大したもんだわ)
今この学校で美少女を挙げろと言われれば――男女問わず、教師たちでさえ――琴音と陽菜の名を挙げるだろう。
しかも琴音は、あの島崎家のご令嬢。
教師をしていれば生徒たちの色恋沙汰は嫌でも耳に入ってくるが、こんなケースは美咲も一度だって見たことがない。
「一つだけ聞くわよ、琴音ちゃん」
「はい」
「藤森くんのこと、どれくらい好き?」
「どれくらい、って……」
海より深く山より高く好き、なんて問いかけをするつもりはなかった。
「賢い琴音ちゃんなら分かると思うけど、選択には機会費用がつきものよ。琴音ちゃんは藤森くんを選ぶことで、他の何を、どこまで捨てられる?」
陽菜という強力なライバルの登場。
しかも大輝の心は、すでに陽菜へと大きく傾いている。
そこから取り戻すには、どれほどの対価を払わねばならないか、想像もつかない。
「よく言うじゃない? 世の中には星の数ほど男がいるって。藤森くんと完全に同じ人はいなくても、琴音のことをもっと想ってくれる人はきっといる」
「……でも結局、藤森くんと完全に同じ人はいないじゃないですか」
「そうね。今この状況で藤森くんを選ぶことによって生じる機会費用を、琴音ちゃんはどこまで背負えるのかってこと」
時間と努力、心労、プライド。
そこに、人生で最も輝く青春という取り返しのつかない価値までも。
「よく考えてみて。今まで琴音ちゃんが注ぎ込んだ感情――いわゆる埋没費用が、判断を曇らせているんじゃないかって」
「……つまり私は、今まで藤森くんを好きだったことが惜しくて、ただ執着してるだけだと言いたいんですか?」
「そういう可能性もあるってこと。ほら、たまにいるでしょ? 口もきかないほど仲が悪いのに、それまでの生活が惜しくて離婚しない夫婦とか」
美咲が琴音の顔を見つめながら言葉を続けた。
「成功確率の低いギャンブルに、琴音ちゃんはオールインする気?」
今から琴音が大輝に魅力をアピールしたところで、果たして一度離れてしまった心を取り戻せるだろうか?
美咲が見る限り、極めて難しいように思えた。
全てを賭けても得るものはなく、ただ失うだけになるかもしれない。
そんな未来を教師としても、近所のお姉さんとして親しく接してきた身としても、勧めるわけにはいかなかった。
だが琴音はかえってかすかな笑みを浮かべた。
「私ですね、美咲さん。ずっと自分は人より賢いと思っていました」
「まあ、実際に学年トップだしね」
この学校は地域で最も偏差値が高い。
琴音はそんな学校に首席で入学し、以来一度たりとも首位を譲ったことがない。
定期テストの出題ミスもことごとく指摘するため、教師たちでさえ緊張する存在だ。
「単純にそういう理屈じゃなくて……。私、島崎家の娘としてではなく、ただの琴音として見てくれた初めての異性を……忘れられそうにないんです」
「さっきも言ったけど、藤森くん以外にもそういう男はいるかもしれないわよ?」
「それが今どこにいるんですか? 私の目には見えません。だったら私にとってはいないも同然です。藤森くんを除けば」
琴音が覚悟を決めた表情で断言した。
「私は藤森くん――いえ、大輝くんのためなら、大輝くんの家に嫁ぐことだって構いません」
「……!」
女性が島崎家の当主になるためには、夫となる人が入り婿にならなければならない。
つまり琴音が藤森家に嫁ぐ形になるなら、それはすなわち次期当主の座を放棄するという意味になる。
琴音は小さく微笑んだ。
「私、本当は賢くないんです。家柄とか、何も分かりません。家の専属シェフが作った料理より、大輝くんと食べたご飯のほうが美味しい――それしか、分からないんです」
「……そう」
子供じみた選択かもしれない。
その選択を後で後悔するかもしれない。
だが結局、その感情もまた、未来の彼女自身が背負うべきものだ。
美咲が今何か言ったところで、単なる呪いの言葉にしかならない。
何より美咲自身もよく分からない。
(大人っていうのは、結局あれこれ言い訳の数だけ増えた人間のことなのかもね)
美咲は琴音が聞きたがっていた、陽菜の『二番目の彼女』について慎重に話し始めた。
◇◇
島崎さんの顔が、真っ赤に染まった。
俺は、今夢でも見ているんじゃないかと思って、こっそり太ももをつねった。
まるで、初めて彼氏を下の名前で呼んだみたいに恥じらっている。
そんな初々しさだった。
「お待たせしました!」
その時、店員がやって来て、注文した料理をテーブルに置いた。
サラダからドリア、パスタ、ピザまで一通り揃っていた。
島崎さんがカトラリーボックスからフォークとナイフ、スプーンを二組ずつ取り出した。
そして、一組を俺の前に置いた。
「大輝くんも食べたいの食べて。私が全部奢るから」
今の彼女があまりに不自然で、どう反応すべきか見当がつかない。
皮肉なものだ。
別れを告げに来た今になって、彼女が『彼女』らしくなるなんて。
「あのさ、島崎さん」
「琴音だってば」
「……分かった。琴音さん」
「さん付けもいらない」
ここで島崎さんを『琴音』と呼び、それが陽菜の耳に入ったら、きっと不安になるだろう。
陽菜からすれば、島崎さんと俺が二人きりでいるだけでも、快くはないはずだ。
どうすべきか悩んでいると、島崎さんがサラダからミニトマトを一つフォークで刺し、口へ運んだ。
「やっぱり、お昼のお弁当よりここで食べるほうが美味しい」
「……そうか? 普通は、島崎家の専属シェフが作った弁当のほうが好きだと思うけど」
「ここは、大輝くんが初めて私を連れてきてくれた場所だから」
そう言われると、胸の奥で記憶が蘇る。
イジメられそうだった俺を助けてくれて、それからなんとなく話すようになった一年の頃だ。
きっかけはファミレスの新メニューの話題だった。
いくら島崎家のお嬢様とはいえ、一度も行ったことがないなんて信じられなかった。
俺を含め、セレブ校に通っていた頃の金持ち連中も、いわゆる庶民の味を好んで食べていた。
俺の目には、島崎さんがおとぎ話に出てくるお姫様そのものに映った。
「私って本当に、狭い鳥籠の中で生きていたんだって気づいたの」
「いや、そんな大げさな……」
「ここだけじゃないわ。大輝くんが連れて行ってくれた場所、全部。世界が広がった感じがするというか」
サラダを三分の一ほど食べた彼女は、今度はパスタへフォークを移した。
麺をくるくると巻き、口へ運ぶ。
いつも思うが、テーブルマナーを学んでいるせいか、その仕草は実に優雅だ。
「ねぇ、大輝くん。私、さっき見たの」
「何を?」
島崎さんがスプーンでドリアを大きく一口すくう。
それを俺の口元へ、おずおずと差し出した。
「あ、あーん」
「……は?」




