第28話 決別の新学期①
立入禁止の看板を過ぎ、琴音と陽菜は屋上へと続く階段の踊り場にたどり着いた。
琴音はもう陽菜の手首を離していた。
先ほど強く握っていたせいで、手首には赤い跡が残っていた。
「で、何の用?」
「何の用って……!」
琴音が奥歯を噛み締めた。
いつもは愛らしいはずの幼なじみの笑顔が、今日はひどく憎たらしく見えた。
「……いつから?」
「何が?」
「いつから藤森くんと、そんな関係になったの?」
夏休みの記憶が脳裏に蘇る。
琴音の中で、点だった違和感が一本の線になっていく。
蚊に刺されたと言い繕っていた、陽菜の首に残っていた赤い跡。
東京旅行の目的について、あからさまに食い違っていた二人の話。
そして、大輝への恋心を相談した時に陽菜が口にした、あの意味深な言葉。
「キスしたの、夏祭りの時が初めてじゃないでしょ? もうその前から、そういう関係だったんでしょ?」
陽菜が恋心を打ち明け、事実上の宣戦布告をしてきたあの日。
――いや、正確には夏祭りデートの夜。
琴音は、その夜に二人が結ばれたのだと思っていた。
けれど、ピースをはめるほどに、どうしても噛み合わない箇所が出てくる。
何より、あの口づけだ。
互いにファーストキスとは到底思えないほど、二人の唇は馴染んでいた。
「うん、正解。やっぱり琴音は勘が鋭いね」
「っ……!」
陽菜の言葉は、琴音には嫌味のように響いた。
「琴音が植物園デートで大輝の手を振り払った日、覚えてるでしょ。あの日から大輝と付き合うようになったの」
「そ、それじゃあ……」
一学期の終わりから夏休みにかけて――大輝は、琴音じゃなく陽菜を彼女として隣に置いていたってことだ。
琴音がずっと家に引きこもって、大輝のことで悩んでいる間に。
琴音の頬が朱に染まり、柳眉が逆立った。
「他の女なら、百歩譲ってまだ納得できた! 私がこれまで酷いことをしてきたのは事実だから! でも――でも陽菜! あんただけは、あんただけはダメでしょ!! 誰よりも私のこと知ってるくせに、どうしてこんなことできるのよ!!」
大輝への恋心を自覚させ、付き合うように背中を押したのは他ならぬ陽菜だ。
自分が焚きつけておきながら、横から大輝を掠め取っていくなんて。
それなら最初から背中なんて押さないでよ――琴音は心の中で絶叫した。
「……本当は、ここまでやるつもりはなかったよ」
陽菜がうつむいたまま言った。
やがて顔を上げ、琴音を見据えて言葉を続けた。
「でも……好きな人に泣かされてばかりの大輝を、隣で見てるのがどれだけ辛かったか……分かる!?」
琴音は一瞬、体を強張らせた。
彼女も陽菜のことをよく知っている――決して自分のエゴのためだけに動く人間ではないということを。
「結局、言い訳じゃない! カップルなんだから喧嘩することだってあるでしょ! 慰めるくらいならまだしも、そういう風に奪うなんて、人としてどうかしてるわ!!」
「それを、ただの喧嘩だって言うの? 琴音、あんたはおばさんが自分を傷つけるのも、全部ただの喧嘩だと思ってるの?」
琴音の体が凍りついた。
そもそも、なぜ自分が大輝に惹かれたのか――麻美に疲れ果てていた自分を、精神的に救ってくれたからだ。
陽菜もまた、形が違うだけで彼に同じことをしたのだと、琴音は悟ってしまった。
「まあ、琴音の立場からすれば、私が泥棒猫なのは間違いないね。大輝は親友と浮気したサイテーな男だし」
陽菜が長いため息をつき、小さく舌打ちをした。
「なら、もう大輝を手放してあげれば? 浮気した彼氏なんて、いらないでしょ? それとも、浮気した彼氏を許してあげるの? 琴音の言葉を借りるなら、それは琴音が負けを認めるってことだよね?」
琴音は夏祭りの時、七海に言われた言葉を思い出した。
――普通なら、浮気した彼氏なんて『こっちから願い下げだ!』ってそのまま終わりっしょ。
悲しみや怒りはあっても、特殊な事情でもない限り、一般的に浮気した相手と関係を続けない。
つまり、浮気が発覚した時点で、二人の関係は破綻するのが普通なのだ。
陽菜が自分の右頬を差し出した。
「引っぱたいてもいいよ。なんなら左もどうぞ。それで気が済むなら」
すでに覚悟を決めたように、陽菜は淡々と言い放った。
琴音はそんな彼女の姿に、恐怖さえ感じた。
ここで平手打ちをするのは難しくない。
けれど、その瞬間――本当の意味で、自分が麻美と同じだと認めることになる。
琴音はただ、唇を強く噛むしかなかった。
「……一つだけ教えて。藤森くんは、全然平気だったの? 陽菜と付き合うことに」
「思ったより抵抗してたよ。琴音を裏切ることはできないって。でもこの動画を見せたら、自分はもう振られてたんだって」
陽菜がスマホを取り出し、動画を再生した。
琴音が校舎の裏で大輝に告白している場面。
——そして、周りでそれを見ていた他の女子たちがクスクス笑っている姿。
琴音の目が丸くなった。
「こ、これは……! 陽菜、あんた知ってるでしょ!? あの場の空気じゃ、どうしようもなかったじゃない!? それに罰ゲームはただのきっかけで、全部が嘘だったわけじゃないでしょ!」
「罰ゲームでの告白を本気にする人なんていないよ。だから私、ちゃんと止めたじゃん。なんなら私が説得してあげるって言ったのに。でも、琴音は告白したでしょ」
陽菜が苦い笑みを浮かべながら、言葉を続けた。
「大輝ね、自分が鈍感すぎたせいだって自分を責めてたよ」
「……!」
琴音の顔色が蒼白となった。
大輝が自分も普通の女子高生だと知らしめてくれたおかげで手に入れた、友人たちとの対等な空気。
それを壊したくなくて――ただ少し、拒絶するのが怖かっただけなのに。
あの時、いっそ空気をぶち壊してでも頑なに拒否すればよかった。
いや、いっそのこと怒るべきだったのだと、彼女は悟った。
陽菜がふっと笑った。
「もし大輝が琴音に罰ゲームで告白してたら、どう反応したかな。私のことバカにしてるのって、すごく怒ったでしょ? 大輝はね、この動画を見ても一度だって琴音を悪く言わなかったよ」
「っ……」
スマホをポケットにしまった陽菜が、階段を下りながら言った。
「それでも琴音、大輝のことで感謝してることがある。一年の時にいじめられそうだった大輝を助けてくれて、ありがとう。大輝の彼女として、琴音、あんたは私にとっても恩人だよ」
踊り場に一人残された琴音。
せっかくメイクで隠した泣き腫らした跡が、また新たな涙で崩れてしまいそうだった。




