第26話 波乱の夏祭り⑩
あと数分もすれば、この夏休みの最後を飾る花火が夜空へと打ち上がる。
激変はあったけれど、後悔のない夏休みだった。
そんな感慨に耽り、陽菜の温もりを感じていた。
――その時。
「……何、してるの?」
不意に、目の前へ人影が落ちた。
ほのかな光沢を帯びた生成色のシルクブラウス。
首筋を包むレースの襟。
藍色のプリーツスカートが夏風に揺れている。
丁寧に手入れされた長い黒髪の間から小さなピアスが覗き、足元に落ちた光が静寂の中で煌めいた。
「……こと——」
俺は名前を呼びかけようとして、飲み込んだ。
「島崎さん……ここで、何してるの?」
「何してるのって……。藤森くんこそ、ここで何してるの? 陽菜と二人きりで」
棘のある島崎さんの口調。
だが表情には、当惑と衝撃が滲んでいるようだった。
傘がなく、夕立に一人打たれていた時と同じだった。
(それでも、本当のことを話すべきだろう)
ここまで来て、陽菜との関係を誤魔化すのは無理だ。
島崎さんが今更俺をどう思っていようと、もう過ぎたこと。
幼馴染の関係まで拗れるのは心が痛む。
でも、その分は俺が埋め合わせるしかない。
もし島崎さんが俺を好きじゃないのが本当なら、幼馴染の関係が壊れることもないだろう。
「島崎さん、実は——」
「ずいぶん早いお出ましだね、琴音」
ところが陽菜が俺の言葉を遮り、勢いよく立ち上がった。
まるで対峙するかのように、島崎さんと向かい合う。
「わ、私だって事情があったのよ!」
「だいたい事情は察しがつくけど……。で? それ、藤森くんには正直に話したの?」
「そ、それは……」
事情?
俺としては、二人が何の話をしているのか、具体的な内情までは推し量れなかった。
だが少なくとも、島崎さんが俺に隠し事をしているという事実は分かった。
「そんなこと、今はどうでもいいでしょ! 二人で人気のない場所で、何してたのよ!!」
島崎さんが地団駄を踏んで叫んだ。
いつも気高く冷静さを保っていた彼女が、これほど激昂する姿を見せたのは初めてだった。
陽菜が小さく鼻で笑った。
「何って、見れば分かるでしょ? デート。私、言ったよね? 藤森くんが好きだから夏祭りに誘うって」
「っ……!」
「そんなに嫌なら、藤森くんに一言言えばよかったじゃない。私の誘いに乗らないでって。でも、しなかったでしょ? 今時スマホでいつでも連絡できる時代なのに」
島崎さんが何の反論もできず、肩をすくめた。
何も知らない第三者が見れば、陽菜がいじめているように映るほどだった。
一方で、俺がいない間に二人の間で真剣な話があったのだと知った。
俺がむやみに口を挟めないくらいに。
「と、とにかく! 人の彼氏に色目を使わないでよ! 常識でしょ!?」
「罰ゲームで付き合ってる彼氏なんでしょ?」
「ば、罰ゲームだろうが何だろうが、私が告白して藤森くんがOKしたんだから彼氏は彼氏よ!!」
「じゃあ琴音は、藤森くんに一度でもちゃんと彼女らしいことしてあげたことある?」
感情的な島崎さんに対し、陽菜はどこまでも落ち着いていた。
まるで予め予想していたかのように。
いつもの快活な姿ではなく、バレー部のエースとして真剣勝負に挑んでいるような表情だった。
「束縛だけして、愛情は注がない。何それ。ただ藤森くんを聞き分けのいい犬として飼い慣らしたかっただけでしょ? 恋人として好きなわけじゃなくて」
「ち、違うわよ! わ、私は……」
島崎さんががっくりと項垂れて、自分の手首を強く握りしめた。
握られた右手の指先が、小刻みに震えていた。
心の片隅で、「あの時の告白は、本当は嘘じゃなかった」と言ってくれる瞬間を期待していたのかもしれない。
だが、島崎さんは決してそんな言葉を口にしなかった。
「私は、琴音とは違う」
陽菜はそう宣言すると、振り返って俺の方へ歩み寄った。
そして爪先立ちのまま俺の首に両腕を回し、耳元で囁いた。
「キスしてもいい?」
その問いに、島崎さんが目を見開いた。
そしてやめてと言わんばかりに、小さく首を横に振った。
島崎さんは、本当に俺のことが好きなんだろうか。
鈍感な俺には分からない。
だけど、目の前の陽菜は何度だって好きだと言ってくれた。
なら俺は、俺を確実に好いてくれる陽菜を優先するだけだ。
「いいよ」
「ありがとう」
陽菜が体を強く密着させて、唇を重ねた。
今日一緒に食べた屋台メシの残り香が、口付けの中でふっと蘇った。
薄目を開けると、島崎さんが上気した表情を隠そうとするように、両手を口元に当てているのが見えた。
その大きな瞳が潤んでいる理由は、何なのだろう。
鈍感でデリカシーのない俺には分からなかった。
——ドォォォンッ!
俺と陽菜が口付けを交わした瞬間、腹の底に響く破裂音が空気を震わせた。
見上げれば、巨大な花火が夜空を貫き、金色の華を咲かせている。
陽菜が唇を離し、顔を島崎さんの方へ向けた。
「私は自分より大輝を優先できるよ。琴音、あんたは?」
耳元で鳴り響く連鎖的な爆発音の中。
陽菜の言葉が、島崎さんに届いただろうか。
どさり、と島崎さんが腰を抜かしたように地面へ座り込んだ。
震える空気の合間から、途切れ途切れの声が、悲痛な響きを帯びて俺に届く。
「私は、私は、私は——」
またしても島崎さんの姿に、中3の時の俺の姿が重なる。
いつも完璧だった彼女。
かつて俺を救ってくれた恩人に、今は憐憫と同情を感じる。
だが同時に、愉悦という名の、自分でもクズだと思う感情さえ湧き上がってくる。
(とにかく、もう俺には陽菜だけ)
恩返しはしたい。
でも、陽菜に不安を与えないように振る舞わなきゃ。
そのためには——
「陽菜、俺、ハンカチ持ってきてないんだ。島崎さんに貸してあげられる?」
「分かった」
嘘をついた。
ポケットの中には、自分のハンカチが入っているのに。
陽菜が巾着からハンカチを一枚取り出した。
そして島崎さんに近づいて膝を折り、ハンカチを差し出した。
「……いらない!!」
パシッ!
島崎さんが陽菜の手を強く払った。
手に持っていたハンカチが弾かれ、地面に落ちた。
だが陽菜は、かえって笑みを浮かべた。
「そう、それが琴音の答えなんだね。大輝の優しささえも、もう嫌だってことか」
「……!」
島崎さんが俺の方を見た。
俺は余計なことをしたと後悔し、思わず視線を逸らした。
そしてそのまま、陽菜に言った。
「せっかくいい穴場見つけてくれたのに悪いけど、他の場所行ってもいいかな」
「うん、いいよ。私は大輝の隣ならどこでもいいから」
立ち上がった陽菜は、島崎さんをちらりと見下ろしてから、俺と腕を組んだ。
一刻も早く、ここを離れたかった。




