第23話 波乱の夏祭り⑦
いくら年上の同性とはいえ、初対面で名乗りもせずいきなりちゃん付けだなんて。
服装もきちんとしているどころか、ラフなタンクトップにデニムのショートパンツという格好。
琴音は内心不快に思ったが、目的のために今は我慢するしかなかった。
(お母様なのだから、この人が東大出身なのは確かだろうけど……)
いくら大学の肩書が立派でも、こんな軽そうな人を娘の家庭教師に?
琴音は改めて、麻美の眼力を疑った。
新しい家庭教師が琴音に顔を近づけ、あちこち確認するようにじろじろと覗き込むと、顎に手を当てた。
「いやー、琴音ちゃん、学校でモテるっしょ? 毎日一回は告白されてるんじゃない? 同じ女が見てもマジ可愛いわ〜」
「いえ、そこまででは……」
「あ、モテるのは否定しないんだ?」
クスクスと笑いながら、片方の口角を上げたまま手で口元を覆う新任の家庭教師。
琴音は苛立ちで引きつりそうになる口元をぐっと堪えた。
「失礼ですが、先生のお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「あ、うっかりしてた! 自己紹介してなかったね。琴音ちゃんに一目惚れしちゃってさ〜」
ゴホン!
新しい家庭教師がわざとらしく咳払いをして、自分の腰に両手を当てた。
「うちは小田七海。小さいに田んぼの田でコダね。オダじゃないから、よろしく〜」
「あ、はい、小田さん。すでにご存じかと思いますが、私は島崎琴音です」
果たして今回の家庭教師は大丈夫だろうか――琴音は一抹の不安を抱えながら授業を受け始めた。
だが、最初の心配とは裏腹に、七海の授業は分かりやすい。
合間合間に冗談を交えて退屈させない工夫もある。
ただ、琴音にとって今、授業は重要なことではなかった。
彼女はこまめに時計を見ながら、話を切り出すタイミングを計っていた。
(どうやって切り出せばいいんだろう……)
七海が来る前、何日もこの時のために頭の中でシミュレーションを繰り返したというのに。
いざとなると、言葉が出てこない。
琴音は自分がこれほどまでにヘタレであることを痛感した。
「いやー、琴音ちゃんマジで頭いいね。うちとは大違いだわ〜 うちがこの年頃の時は、頭に何を詰め込むかより、頭の上に3ヘルを被ったかどうかのほうを気にしてたんだけどねぇ」
あははと七海は、琴音には理解できない用語で笑い飛ばした。
こう言っているが、実は東大出身。
高度な欺瞞というやつではないか――そんな疑念さえ湧いてくる。
「てか琴音ちゃん、さっきからうちに何か言いたげな顔してない?」
「っ……」
不意を突かれて、琴音は即答できなかった。
一見軽そうに見えて、実は人をよく見ているのだろうか。
もしかしたら全部演技かもしれない――そう思った瞬間、喉が渇いた。
琴音は思わず唾を飲み込む。
「うちが当ててみよっか? 男関係でしょ!」
「っ……どうしてそれを」
「え、マジ? 適当に言っただけなんだけど」
「……」
まんまと乗せられた――琴音はそう思った。
だが、今がいいタイミングだ。
琴音は慎重に話を切り出した。
「小田さん、いえ、小田先生。お願いがあります」
「お願い? どんな?」
「私を、この家から出られるように手伝ってください」
琴音は席を立つと、畳に正座する。
そして、深く頭を下げた。
琴音の突然の行動に、七海は慌てて勢いよく立ち上がった。
「ちょ、ちょっと何してんの! こんなことしなくていいから!」
「お願いします、先生。私、今日どうあっても外出しなければならない理由があるんです」
「分かったから、とりあえずこういうのはやめよ? ね?」
七海に止められ、琴音は再び席に座った。
二人の間に気まずい空気が流れる。
七海は頬杖をつきながら、「ふーん……」と声を漏らした。
「今日、彼氏か気になる男子と夏祭りデートしようとしたけど、親が頑として反対してる。だから琴音ちゃんはうちを利用して、どうにか勉強関連で外出の名分を作って、夏祭りデートをしようとしてる。でしょ?」
「大体は合っています」
「大体は?」
「……私と仲の良い幼馴染の女の子がいるんですけど、その子も私の彼氏のことが好きで、デートに誘うって言ってたんです」
すべてを話すわけにはいかない。
琴音は短く、表面的な部分だけを話した。
自分のプライドから、罰ゲームとして嘘の告白をしてしまったこと。
そうして付き合い始めてからも、自分がこれまで高圧的な態度を取ったせいで大輝との仲が急速に冷え込んだこと。
元々は自分たちの関係を応援してくれていた陽菜が、その隙を狙おうとしていること。
まるで懺悔をするように、震える手をぎゅっと抑えながら――琴音は語った。
ところが七海は目を見開き、琴音の両手をガシッと掴んだ。
「すっごく面白……いや、切ない話じゃん! うちも絶対協力するから!!」
「今、面白いっておっしゃいました?」
「細かいことは置いといて! いやー、本当にあるんだねぇ、一人の男を巡る二人の女の三角関係! 漫画やドラマの中だけの話じゃないとは!」
七海の両目がキラキラと輝いた。
琴音は呆れ返ったが、結果オーライと受け入れることにした。
(それにしても三角関係か……)
ありふれた恋愛モノの定番だ。
琴音もたまに映画やドラマで見れば面白がってはいた。
だが、当事者となれば本当に胃が痛い。
いっそ陽菜が赤の他人だったらまだマシだったのに――琴音は唇を噛んだ。
「てか、その男の子の名前、藤森くんって言ったっけ? 漢字はどう書くの?」
「藤の花の藤に、青森の森です」
なぜあえて大輝の名前を?
七海の質問の意図は分からなかったが、一応琴音は答えた。
「まさか……下の名前は大輝?」
「はい、そうですけど……どうして分かるんですか?」
琴音は目をぱちくりさせた。
これまでの会話で『大輝』という名前など、一度も出していないのに。
「なんというか……世間は狭いねぇ」
「お知り合いですか?」
「うちが一方的に知ってるって感じかな? 多分、そのボンボンはうちのこと知らないと思うよ」
七海は、どこか遠くを見るような目をした。
悪戯心など微塵もなく、ここではないどこかを見据えているようだった。
琴音はそんな七海の様子を警戒して尋ねた。
「……もしかして小田先生も藤森くんのことが好きだとか、そういうことじゃないですよね?」
「違う違う! うちの実家と藤森家がちょっと関わりあってさ。とにかく、そのボンボンもやるじゃん! 琴音ちゃんみたいに可愛い彼女も作って」
七海は琴音の肩をぽんぽんと叩いて誤魔化した。
琴音は依然として気になったが、今は問い詰める立場でも状況でもないので口を噤んだ。
「てかさ、琴音ちゃんの親も本当変わってるね。あの藤森家のボンボンでしょ? 何が不満で反対するわけ?」
「多分、家柄が釣り合わないと思われているようで……」
ぶっ、と七海が吹き出した。
「家柄が釣り合わない? どことどこが?」
「うちの島崎家に、藤森くんが釣り合わないと思われているみたいで……」
「嘘でしょ? もしかして琴音ちゃん、あの藤森家のこと知らないの? 彼女なのに?」
「え?」
琴音はじっくりと考えた。
確かに大輝は、両親が離婚して一人暮らしになったこと以外、自分の家のことを全く話してくれなかった。
彼が以前住んでいたという東京の街に連れて行ってくれたことはあったが、それだけだった。
(……まさかあの時、何か話そうとしてたの?)
琴音は当時、満員電車で大輝と密着している恥ずかしさと、初夏の汗で匂いがしないかという不安で、癇癪を起こしてしまっていた。
なぜあえてあの街に連れて行こうとしたのか、今なら琴音にもその意図が分かる。
大輝を深く知るための好機を、自ら棒に振ってしまったという事実まで。
「とにかく琴音ちゃん。あの男の子は絶対に普通の男の子じゃないってこと、覚えといたほうがいいよ。どうやら正体を隠してるみたいだけど、うちが下手にこれ以上喋ったら、うちの首が危なそうだし〜」
一年の一学期に初めて大輝と出会った時から、彼が只者ではないことは琴音も知っている。
少なくとも、どこか得体の知れない人であることは確かだ。
ただ、恋人でありながら、目の前の七海より大輝のことを知らない。
その事実が、琴音の胸に悔しさとして突き刺さった。
(今回こそ、ちゃんと本当の恋人になるんだから)
自分の気持ちに嘘をつくのは、もうやめよう。
陽菜みたいに、素直に伝えるんだ。
琴音はそう、決心した。




