第22話 波乱の夏祭り⑥
突然の夕立に全身を打たれた島崎さん。
あの時彼女が見せた顔は、俺が千尋さんに涙を堪えながら聞いた時と同じだった。
両親に捨てられて一人残された、中三の時の俺の姿と重なって見えたのだ。
(島崎さんのあんな弱った姿、初めて見たな……)
もしかすると俺は、彼女のことをほとんど知らないんじゃないだろうか。
初恋とはいえ、実は表向きの姿だけで惚れ込んでいただけなんじゃないか。
もちろん本人をはじめ、誰も彼女のことを教えてくれたことがないんだから、知る由もなかったが。
だが果たして俺は、本気で彼女を知ろうとしただろうか。
ただ自分の初恋を成就させるために躍起になっていただけで、本質を見落としていたんじゃないか、とこの一年を振り返った。
(……とにかく、今は陽菜がいる)
そう、琴音の時の反省を生かして、陽菜には同じ過ちを繰り返さないようにしよう。
もう過ぎたことを悔やんでも意味がない。
ただ、一つだけ棘のように引っかかる部分がまだ残っていた。
(俺が呼び方を変えたことを、なんであんなに執拗に……)
正直、俺は島崎さんが全く気にしないと踏んでいた。
いや、むしろ俺が名前呼びを付き合ってから押し通しただけに、喜ぶとさえ思っていたのだ。
好きでもない男に名前を呼び捨てにされて、喜ぶ女なんていないはず。
(だからって、これ以上深入りはできない)
知ったところで意味のない、いや、知ってはならない事実もこの世にはある。
何より今更彼女の本心を知ったところで、変えられるものはない。
俺の彼女は陽菜一人。
そう決めたのだから。
(だから、あの夕立の時のことはさっさと忘れなきゃいけない)
俺が島崎さんに傘を貸した理由は同情心。
そして一年の時に俺を救ってくれた恩返しのため。
それ以上でもそれ以下の意味も、もうない。
あってはならない。
◇
ガチャリ、と玄関のドアが開いた。
読んでいた本を閉じて顔を向けると、にこにこと笑う陽菜の姿があった。
その手には、いくつかのショッピングバッグが提げられていた。
俺が席を立って彼女に近づくと、彼女はバッグを床に置くなり、いきなり俺の首に腕を回して密着してきた。
「お帰りなさいのチューして!」
「……たまに思うけど、陽菜ってそういう気恥ずかしい台詞、平気で言うよな」
「なに、嫌?」
「いや、良いけど」
素直に求めてくれるから、俺も迷うことなく応じればいい。
もしかしたら俺は、猫より犬の方が好きなのかもしれない。
俺も陽菜を抱きしめながら、彼女と口づけを交わした。
俺は軽いキス程度に思っていたが、彼女の方から強く唇を重ねてきた。
「チューじゃなかったのかよ」
「広い意味で言えば、これもチューでしょ?」
「広すぎないか?」
だが当然、俺も本気で嫌だったわけではないので、彼女に応じて、しばらく口づけを交わした。
肌のぬくもりと、蒸し暑さに滲んだわずかな汗の匂い。
それが、陽菜という存在をこの上なく生々しく突きつけてくる。
唇を離すと、満足げな表情を浮かべる陽菜。
彼女に床に置かれたショッピングバッグを指差して尋ねた。
「何買ったんだ?」
「着替えと同棲セット!」
「すっかり住み着くつもりだな」
「えー、そんなこと言わずに、お代官様~ 今お見せいたしやす!」
陽菜がバッグの一つを持って、空いている部屋に入った。
着替える音がドア越しに聞こえた。
そして間もなくして、勢いよく部屋から出てきた。
「じゃーん! どう?」
ただの服だろうと思っていた俺は、思わず目を見開いた。
真っ白なビキニだった。
「なんだかんだ夏なのにプールデートできなかったじゃん? だから気分だけでもどうかなって!」
「……一応聞くけど、まさかそれ着てプール行くつもりだった?」
胸元を覆う三角の布地はかなり小さく、白いビキニは一般的な水着よりも露出が多い。
腰の細い紐と小ぶりなボトムが、身体のラインを際立たせていた。
「それは違うよ! 私、痴女じゃないし!? これはせっかく大輝にだけ見せるんだから、大輝の推しキャラの水着を真似してみたの」
「あ、なるほど」
その水着のシーンは覚えている。
サービスカットとして出てきたセクシービキニで、一般的な水着ではなかった。
だが目の前の陽菜は、髪の長さこそ少し足りないものの、見事にそのサービスカットを再現していた。
要するにコスプレなのだ。
陽菜が不満げに頬を膨らませた。
「なんか反応薄い!」
「そうでもないけど?」
陽菜をお姫様抱っこで軽々と持ち上げた。
そして寝室へ行き、彼女をベッドに下ろした。
「その水着、汚してもいいか?」
「うん、もちろん! だって汚されるための水着だもん!」
「なら、今日外泊許可もらった? いや、絶対もらえ」
陽菜が頬をほんのり染めて、小さく頷いた。
◇◇
夏祭り、当日。
当主である麻美の厳命により、この日の琴音は家の中を移動することさえままならなかった。
麻美本人も、普段の仕事を休んでまで家に留まっていた。
(そろそろ来る時間だわ……)
琴音はいつもより入念に身なりを整え、メイクは薄めに仕上げた。
彼女は普段から家庭教師と接する時に適当な格好をすることはなかったが、今回ばかりは気合の入れ方が違う。
そもそも、家庭教師に見せるための格好ではないのだから。
(浴衣は仕方ないけど……)
とにかく今の目標は、この家を出て夏祭りに行くこと。
そして、大輝と陽菜の進展をどうにかして食い止めること。
可能なら今回こそ大輝と手を繋いで一緒に花火を見上げ、これまでの誤解を解いておくことだ。
(……このままじゃ私は、二人とも失うことになるかもしれない)
大好きな彼氏も、長く一緒に過ごしてきた同性の幼馴染も。
もし本当にそんなことが起きたら、果たして自分は正気でいられるだろうか?
今までどんなことでもテキパキとこなしてきた琴音も、今回ばかりは自信が持てない。
(とにかく、今できることをやらなきゃ)
琴音は覚悟を決め、手鏡を覗き込んだ。
そのとき、部屋の外から足音が二つ聞こえてきた。
やがて使用人の手によって、扉がゆっくりと開かれた。
「おー……きみが琴音ちゃん?」
小麦色に日焼けした健康美あふれる若い女性が、部屋に足を踏み入れた。
◇◇
「じゃあお願いね」
浴衣を着た本城陽菜が、女子生徒一人に笑いかけた。
その女子生徒は小さく頷いたが、心配そうな眼差しを向けた。
「陽菜、本当に大丈夫?」
「何が?」
「藤森くんの相手は島崎さんだけだ、学校じゃそういうことになってるじゃん。下手に動くと陽菜が横から奪ったって言われかねないよ……」
その言葉に、陽菜は小さく鼻で笑った。
「じゃあ、そんな外聞のせいで、大輝は実ることのない片想いに縛られ続けなきゃいけないの? もう一年半も、あんなに苦しんでいるのに」
すでに呼び捨てにしていることに女子生徒が驚いたのも束の間。
普段の物腰柔らかな陽菜とは違い、今日は断定的だった。
「それに、大輝はね……心から好きでもない女を抱けるような、器用な男じゃないの。もちろん大輝の心の片隅に琴音が居座っているのは分かってる。でも、いいよ。それが完全に消え去るまで、私は待てる。それだけ、大輝のこと好きだから」
「陽菜……。てか待って。抱ける?」
え? もうそこまで進んでるの?
女子生徒は動転して、まともに声が出なかった。
陽菜がにやっと笑いながら言った。
「じゃあ改めてよろしくね! 私と大輝のラブラブなとこ、ちゃんと撮ってよ?」
夏の魔法が引き寄せた、急速に距離を詰める二人。
自然な噂を広めるための最初の一手だった。




