第21話 波乱の夏祭り⑤
「よう、通い妻さん」
体育館の裏手、膝を抱えて座り込んでいる陽菜のもとへ、美咲が静かに歩み寄った。
陽菜がわざわざ口にせずとも、彼女が昼夜を問わず大輝の家に通い詰めていることなど、美咲にはとうに分かっている。
本来なら教師として節度を求めるべきだろうが、今は従姉としての立場が勝った。
「なんでそんな死にそうな顔してるんだ?」
さっきのバレー部の練習の時、陽菜は目に見えて調子が悪かった。
間違いなく大輝がらみで何かあったのだろうと踏んだ美咲が、探るように尋ねた。
「旦那様とうまくいってないのか?」
「……ううん、私が思ってたよりもうまくいってるよ」
「なら、何か別の悩みでも?」
「悩み、というか……。知らない自分に戸惑っているのかも。今の私が、私じゃないみたいで……」
すべてが初めてだからこそ抱く感情。
ドロドロだろうが何だろうが、それもまた青春の一つの形か。
美咲はタバコを一本口にくわえながら、薄く笑った。
「お姉さんに、全部吐き出してみな」
陽菜が顔を向けて、美咲の横顔を窺う。
やがて再び地面に視線を落とし、答えた。
「最初の頃、私は……。たとえ琴音が目を覚まして、また大輝が琴音のところに戻ったとしても、それを受け入れられると思ってた。どうせ大輝が本当に好きなのは琴音なんだからって」
自分が好きな二人を結びつけて、自分の恋心を殺す。
嘘の告白という予想外の形ではあったが、ともあれ結果として大輝と琴音をカップルにした。
けれど、大輝は琴音に深く傷つけられる日々を送ることになった。
陽菜は自分のエゴがそんな結果を招いたのだと思い、きちんと責任を取ろうと心に決めていた。
「でもデートを重ねるたびに、大輝と一緒にいる時間が長くなるたびに、大輝に何度もキスされながら、だんだん怖くなってきてるの」
二番目の彼女として過ごした時間は、長いようで短い夏休みだけ。
だけどもう、陽菜の日常に大輝の存在は欠かせないものになっていた。
美咲が紫煙を吐き出しながら、低い声で言った。
「もっと好きになっちゃったってことか」
「うん……。一瞬、琴音のことすごく憎んじゃうくらい」
「そりゃ……重症だな」
両親が離婚する前の琴音は、この街の誰からも愛される少女だった。
元気で、温かくて、困っている人に手を差し伸べる、みんなに優しいヒーロー。
ただ地元の名士の令嬢だからというだけでなく、彼女自身の魅力で人を惹きつけていた。
そして陽菜もまた、幼い頃にヒーローである琴音に大いに助けられた一人だった。
だからこそ陽菜は琴音をライバル視して劣等感を抱きもしたが、それ以上に憧れの気持ちも強かった。
「琴音の家で大輝の傘見つけてしまった時が、一番……やりきれなかったの」
まだ大輝の心の片隅に、琴音が居座っているという証拠。
もちろん彼は一年近くも琴音に片想いしていたのだから、今さら簡単にその想いを全て捨てるのは難しいだろう。
半年以上も大輝に片想いしていた陽菜も、その事実は頭では理解していた。
ただ、頭と心は別物というだけ。
「大輝は優しいから、困ってる人に手を差し伸べられる人だから好きになったってのもあるけど……」
「その相手が琴音となると、嫉妬心が余計に膨らんだってわけか」
美咲の言葉に、陽菜が小さく頷いた。
「口では二番目でも構わない、ずっと琴音と付き合っててもいいって言っても、やっぱり私は大輝の一番になりたいみたい」
「まあ……当然だな」
深みにはまればはまるほど、欲という罪が鎌首をもたげる。
努力すればするほど、より大きな見返りを求めてしまう。
「他はともかく、大輝だけは絶対に手放したくない」
惨めになるほど縋りついて、ずっと彼の傍にいること。
あるいはきっぱりと諦めて、彼が選んだ他の女との幸せを祈ること。
いつかその二つの選択肢から、どちらかを選ばなければならない時が来るかもしれない。
ならば、自分は何を選ぶのか?
陽菜は選んだ後のことを想像した時、明確にその答えが出た。
「たとえ取り返しのつかないくらい、琴音を傷つけることになったとしても」
彼女は選んだ。
惨めになるほど縋りついてでも、大輝の隣にいるのだと。
その方が、他の女のもとへ送り出すより、ずっと幸せだから。
「私、やっぱり自分勝手すぎだよね?」
「正直、私も大人とはいえ、ただ歳を食っただけだからな。そうやって男一人を巡って争った経験はないから、完全には共感できない。でもな……」
美咲が気怠げな目で空を見上げながら言った。
「どんなに理性的な奴でも、腹が減りすぎりゃ他人を食ってでも生き残ろうとするもんだ。ただ――」
中身のない空虚な輪を描く紫煙を、美咲がふわりと吐き出す。
「そうやって食った後で腹が膨れたら、自分が人を食ったって事実は、一生忘れられなくなるもんだ」
だからよく悩んで、よく考えて、後悔のないように決めろ。
美咲は陽菜の肩を軽く叩いた。
◇◇
一人きりの、静まり返った家。
あれほど熱中していた漫画や動画も、今はただ網膜を滑り落ちていくばかりで、心が躍らない。
(本当に寂しいって、こういうことか)
東京の実家でも、似たような気分を味わった覚えがある。
父さんはいつも忙しくて顔を合わせることすら難しかったし、母さんは幼い俺が駄々をこねたり甘えたりするのを鬱陶しがるばかりだった。
俺は唯一遊んでくれた大人である、たまに実家に祖父と一緒に来る千尋さんに、遊んでくれと縋りついたりしていた。
一度、俺だけが両親を好きなんじゃないか、実は両親は俺のことが嫌いなんじゃないか、涙を堪えながら千尋さんに聞いたことがある。
――大丈夫ですよ、若様。若様は会長によく似ておられますから、きっと若様を心から愛してくださる方が現れますよ
あの時かけてくれた千尋さんの言葉を、俺は半分しか理解していなかった。
それなら、両親は俺を愛してくれないということなのか、と。
実際、中三の時の離婚騒動で両親共に俺を捨てたことで、ぼんやり抱いていた予感は残酷なまでに裏付けられてしまった。
俺が一人暮らしを決めた時、千尋さんが言ってくれた。
――私は、若様がいつか東京に戻って来られると信じています
ただの彼女なりの挨拶だと思っていた。
嫌な思い出が大半の東京の実家に、なんで俺がまた戻るんだ?
両親の離婚の件で神経質になっていた俺は、彼女の言葉に耳を貸さなかった。
(……なぜか今、思い出すな)
短いと言えば短く、長いと言えば長い、夏休み。
きっと俺も、陽菜と付き合うことになって変わったんだろう。
去年の夏休みはこんなに感傷的じゃなかったから。
もう一人の言葉が、頭の中を駆け巡った。
――私、琴音だよ。島崎じゃない




