第18話 波乱の夏祭り②
「新しい家庭教師を見つけておいた。今度はきちんとした女性の先生よ」
琴音の母、麻美が部屋に足を踏み入れ、事務的な口調で告げた。
娘の風邪を心配する言葉など、一切なかった。
「来週の火曜日の夕方から来ていただくことになった。二学期が始まっても続けて来ていただく予定よ。いいわね、承知しておきなさい」
「ま、待ってください……!」
来週の火曜日は夏祭りがある。
このままでは大輝の隣で花火を見るのは、自分ではなく陽菜になってしまう。
琴音は、いつもとは違って麻美に強く主張した。
「来週の火曜日の夕方は……困ります。せめて一日だけでもずらしてください。それか、夕方じゃなくてもっと早く……」
しかし麻美に睨まれた瞬間、琴音の語尾が尻すぼみになった。
肩が縮こまり、視線が泳ぐ。
麻美が長くため息をついた。
「あの藤森くんとかいう彼氏と夏祭りに行きたいから?」
「……!」
どうして名前まで知っているの?
琴音は口を半開きにして驚愕した。
「どこの馬の骨かは知らないけど……。昨日商店街の人たちが口を揃えて言っていたわよ。あなたがどこぞの男子生徒に振られたんですって」
島崎家の資金と人脈は、この地域のあらゆる場所に根を張っている。
店や地元企業から警察などの官公庁はもちろん、市長や市議会議員にまで。
琴音が力なく反論した。
「べ、別に振られてなんか……」
「そのショックで雨に打たれて風邪を引いたのはどこのどいつかしら? それだけじゃ飽き足らず、傘を貸してもらったくらいでへらへら喜んで。たかが傘一本で男に絆されるなんて、随分と安い女だと思わない?」
傘そのものが嬉しかったわけではない。
嬉しかったのは、大輝が自分のことを気にかけてくれたこと、そして手を差し伸べてくれたこと。
一緒に雨に濡れてくれるだけでなく、傘を差しかけてくれる人だからこそ、琴音は彼への想いを改めて自覚できたのだ。
(何も知らないくせに……)
琴音は陽菜が部屋を出て行く前に言った言葉を思い出した。
自分が母親の性格にも似ていると?
こんな最悪な母親と?
幼い頃は暴言を吐く父親を理解できなかったが、今ならある程度、父の心情も琴音には理解できた。
「……私はお母様とは違います」
「何ですって?」
琴音が勢いよく立ち上がって叫んだ。
「私は……! お母様みたいに好きな人を手放したりしません……!! 自分の失敗を、私で埋め合わせようとしないで!!」
その言葉に、麻美がカッとなって目を見開いた。
そして次の瞬間。
パシッ――
麻美の掌が、琴音の頬を鋭く打った。
「親に向かってなんて口の利き方! 全部あなたのことを思って言ってるのに!! これも全部あの馬の骨のせいね!! やっぱり女は、男選びを一度でも間違えると……!!」
一度も叩かれたことのない頬の痛みに、琴音は呆然とした。
だが麻美は、それ以上に唇を噛み締めていた。
血が滲むほど、強く。
「……来週の火曜日だけは外出禁止よ。授業があろうがなかろうが、家から一歩も出さないからそのつもりで」
麻美が部屋を出て行くと、様子を窺っていた使用人が、琴音に氷嚢を運んできた。
冷たい氷嚢の表面に、涙がひとつ、浮かんだ。
◇◇
「うぅ……大輝がいじわるぅ……」
昨日言った通り、陽菜はバレー部の練習を終えてすぐに俺の家に来た。
合鍵も渡した。
このままお家デートを決め込もうとしたが、ある問題が発覚した。
「だから夏休みの宿題はコツコツやっとけって言ったのに。とにかく、これ終わらせないと夏祭りには行かないからな」
「ひどい! 私の浴衣姿見たくないの!?」
「見たいからさっさと宿題しろって急かしてるんだろ」
陽菜が来週の火曜日に夏祭りデートをしようと提案してきた。
既に夏休みの宿題を終えていたし、断る理由もなく承諾した。
しかし、まさか陽菜が夏休みの宿題にほとんど手をつけていないとは。
「俺のせいで陽菜の成績が落ちたなんて言われたら、陽菜のご両親に合わせる顔がなくなるだろ」
俺の言葉に、陽菜が例の小悪魔的な表情を見せた。
「大輝、そんなに外堀から埋める気? もう、これじゃあっという間に妊娠しちゃいそう! 最初の子はやっぱり女の子がいいかな?」
「……」
ぺちん、と彼女の額に軽くデコピンをした。
「奥さん気取るなら、まずは手を動かして宿題を片付けろ」
「ふふん! これが内助の功ってやつね!」
「違うから」
こんな風に冗談を交わしながら、合間に陽菜を励ますために、クッキーなどのおやつを手作りした。
美味しいけど女子力の差がどんどん開いていく気がする、と悔しがる反応は軽く無視した。
だが陽菜のやる気は、すぐに尽きてしまう。
……これでも成績は常に学年30位以内に入っているのだ。
一夜漬けでその程度の成績は余裕で取れるらしいが、一般の生徒が聞けば、世の中の不条理を嘆きたくなるレベルの発言だろう。
「何か、もっといいご褒美があればな~」
陽菜が机の上に突っ伏して呟いた。
確かに彼女のようなタイプは、明確な目標を設定しておいた方がいいのかもしれない。
でも、俺にしてやれることって何がある?
(陽菜の性格上、単純に物を買ってプレゼントするよりは……)
恋人同士でできることをしてあげるのが良さそうだ。
俺は、恋人同士が家でよくやることについて、じっくりと考えてみた。
……エッチなことは除いて。
「ご褒美になるかは分からないけど、宿題全部終わったら俺のアルバムを見る……なんてのは、どうかな?」
俺も恋愛経験が豊富なわけではないので、結局のところ知識のベースはメディアで見聞きしたものだ。
メディアでよく描かれる定番を一つ選んだ。
正直自分の口から提案するのは少し恥ずかしかったが、陽菜にはそれなりに意味があるんじゃないかと思った。
違ったら、ただ俺の黒歴史が増えるだけだ。
「すっごいご褒美じゃん!? 大輝のあんな写真やこんな写真が拝めるってこと!?」
「いや、普通に平凡な写真ばっかりだけど……?」
「大輝が素っ裸でお風呂入ってる写真とか!」
それは今でも、たまに俺と一緒に風呂に入って見てるじゃないか?
ツッコミを入れたかったが、とにかく陽菜のやる気が戻ったようなのでぐっと堪えた。
(千尋さんに頼んで、宅配で送ってもらおう)
ここに引っ越して来る時、家族写真の入ったアルバムは見たくなくて、あえて東京の実家に置いてきたのだ。
だが、陽菜なら既に俺の家庭の事情を知っているし、むしろ陽菜となら、家族写真に纏わりつく苦い思いも上書きできる気がした。
いつまでも、過去の痛みに縛られているわけにはいかないからな。
「よーし! 大輝のちび大輝を拝むために頑張るぞ!!」
……陽菜に見せる前に検閲しておこう、と心の中で誓った。




