第16話 夕立
ゴロゴロと、遠くから雷の音が聞こえてくる。
(そういえば、今夜は夕立が降るって、予報で言ってたっけ……)
あっという間に雨雲が琴音の頭上を覆った。
家から急いで出てきたせいで、琴音の手元には鞄も傘もない。
一緒に雨に濡れてくれる人さえ、今はいない。
琴音には、雨を避ける気力さえ残っていなかった。
言い訳にするはずだったベーカリーも通り過ぎ、ぐったりとした体のまま、ゆっくりと道を歩いた。
どちらへ歩けば家に辿り着けるのか、方向感覚さえも失いかけていた。
「藤森くん……」
また名前を、琴音って呼んでくれないかな?
いつもの優しい声で。
琴音の目頭が熱くなっていく。
その時だった。
「島崎さん!」
背後から、琴音が待ち望んでいた優しい声が聞こえてきた。
滲む視界の中で、声の主を探した。
「やっぱり傘持ってなかったんだな。ほら、これ」
急いで走ってきたのか、ズボンの裾を泥水で濡らした大輝が、傘を琴音に差しかけた。
目頭が熱い理由が、一瞬にして変わった。
ああ、やっぱり私はこの人が本当に好きで、大好きで、愛しくて、どうしようもないんだって。
「島崎さん、早く受け取ってよ。腕痛いんだけど」
「……私、島崎じゃない」
「え?」
「私、琴音だよ。島崎じゃない」
涙声で、琴音は大輝のシャツの裾を指先でつまむようにして掴んだ。
体が冷たいのは、空から降る雨のせいなんかじゃなかった。
「……琴音、このままだと風邪引くぞ。家まで送るから、俺の言うこと聞いて」
「……うん」
彼の心が離れてからようやく、琴音は少しだけ素直になることができた。
◇◇
——38.2
陽菜は、琴音からラインで送られてきた体温計の写真を眺めた。
昨日雨に濡れて風邪を引き、熱が出たという説明も添えられていた。
陽菜の知る限り、昨日この辺りで雨が降ったのは夕立だけ。
その時間帯は、ちょうど自分と大輝が東京から戻ってきた時。
(……私の考えすぎならいいんだけど)
陽菜はラインで返信を送った。
幼馴染として心配する気持ちがないわけではない。
だがそれ以上に、普段は完璧を演じている琴音が、雨でずぶ濡れになった理由の方が気になった。
「大丈夫? 薬は飲んだ? 今おばさん仕事に出てるでしょ? 私が看病しに行こうか?」
すぐに既読がつき、返信が素早く飛んできた。
「ちょっと体はだるいけど、薬が効いてきたみたいで、今はだいぶ楽になったよ」
「そう? よかった」
「だから看病は大丈夫なんだけど、ちょっと来てくれたりする? 何か聞きたいことがあって」
「分かった! 実は私も聞きたいことがあるの」
昨日東京で買ってきた東京ばな奈とイオン飲料、その他色々な物を入れた紙袋を持って、陽菜はすぐに島崎家へと向かった。
玄関にある傘立てに、ついこの間見た覚えのある傘があった。
(……なんでここに大輝の傘が)
明らかに彼の家に置いてあった傘だった。
陽菜が傘を手で触ってみた。
ほとんど乾いているが、まだ少し湿り気が残っている。
「お嬢様はお部屋でお待ちです」
使用人の案内を受けて琴音の部屋に通された。
布団に横になっていた琴音が上体を起こし、横に置いてあったマスクをつけた。
米粒が少しだけ残った、食べ終えたばかりの器が陽菜の目に入った。
「今食べられるか分からないけど、これお土産。美味しいよ、東京ばな奈」
「うん、ありがとう」
陽菜が琴音の布団の横にそっと置いた。
二人は普通に病状について話し始めた。
熱は徐々に下がっていて、明後日には完治するだろうと琴音が説明した。
しかし二人が会った目的は、病状の話ではなかった。
「琴音」「陽菜」
声が重なり、幼馴染の二人は、ばつが悪そうに小さく笑った。
「私から先に聞くね。陽菜、昨日東京に行った時、藤森くんも一緒だったでしょ?」
「……なんでそう思うの?」
「家族旅行だなんて言ってたけど、当の美咲さんは何も知らなかったしね。何より、藤森くんも東京に行ってたって話だし」
まさか琴音が直接大輝に会いに行くとは、陽菜にとっては予想外の出来事だった。
こうなっては、彼女としても言い逃れなどできまい。
だが、逆に琴音の言葉には、問い詰めるべき要素が含まれていた。
「その言葉はつまり、昨日の夜、琴音は藤森くんと会ってたんでしょ? 夕立に打たれてた琴音に、藤森くんが傘を貸してあげた……そういうこと?」
「……うん、そうよ」
二人の間に沈黙が流れた。
先に沈黙を破ったのは陽菜だった。
「実は、私が藤森くんに無理を言って東京に行ったの」
「無理……?」
「東京のあるカフェで私の好きな漫画がコラボするらしくて、どうしても行きたかったんだ。でも私、東京の地理に詳しくないでしょ? だから藤森くんに頼んだの」
「じゃあなんで家族旅行だなんて嘘ついたの?」
「琴音は漫画とか嫌いでしょ? 藤森くんが琴音には言わないでくれって、しつこく頼んできたの。自分が漫画好きだと思われたら嫌われるかもって」
琴音が独り言のように呟いた。
「……別に漫画が好きだからって嫌いになったりしないのに」
陽菜はその言葉を聞き取ったが、あえて反応しなかった。
代わりにこう続けた。
「それに私も、変に誤解されたくなかったから」
「先に言ってくれればよかったのに」
「……そう? 本当に?」
陽菜が眉をひそめた。
「ねえ、琴音。藤森くん、学校で女子に結構人気あるの知ってる?」
「……え? なんで? 大抵は敬遠してるんじゃないの?」
「それは一年の時の話だよ。あの時の藤森くんはちょっとアレだったから。でも琴音が変えたじゃん。変わった後の藤森くんを見て、結構親切だし顔も悪くないし、家柄も良さそうだって、みんな言ってたよ」
「全然知らなかった……。私にはそんなこと一言も……」
「そりゃそうでしょ」
口を小さく開けたままの琴音の横顔を見ながら、陽菜が言葉を継いだ。
「藤森くんをあんな風に変えたのは琴音なんだから、藤森くんの相手は琴音しかいないってみんな思ってたの。本気で藤森くんのこと好きな子も、だからこそ気持ちを隠してたんだよ」
「そ、そうだったんだ……」
大輝にふさわしいのは琴音だけ。
逆に琴音にふさわしいのは大輝だけ。
いつも一緒にいたし、大輝が好意を全く隠していなかったため、学校では誰もがそう認識していた。
「琴音。私もそんな子たちの一人なんだ」
「……え?」
陽菜が悲壮な覚悟を決めた表情で、はっきりと告げた。
「私、藤森くんが好きなの」




