第15話 決意②
駅から北へ向かえば陽菜の家、南へ向かえば俺の家だ。
陽菜を送り届けた後、駅舎を通り抜けて自分のマンションへと向かった。
今日は朝早くから東京へ行ったり、陽菜に過去の話をしたり、予期せぬ人物たちに会ったりしたせいで、思った以上に疲れが溜まっていた。
家に着いたら陽菜と少しラインして、すぐに寝ようと考えていたその時。
「奇遇だね、藤森くん」
不意に、琴音が目の前に現れた。
一瞬、肩が跳ねた。
心なしか、彼女の表情がいつもより明るく見える。
(……いや、俺が心の整理をつけたから、そう見えるだけか)
もう琴音は彼女ではなく、彼女である陽菜の幼馴染。
余計な不安を陽菜に与えないためにも、琴音とは距離を置くべきだ。
そもそも、距離が近かったと思い込んでいたのは俺一人だけだったしな。
「あ、うん。奇遇だね、島崎さん。こんなところでどうしたの?」
「ここの近くにある――」
俺は琴音を、名前で呼ぶのをやめることにした。
付き合う前のように、苗字で呼ぶことに決めたんだ。
これが今の俺の決意だ。
「ふ、藤森くん」
島崎さんは、らしくなく言葉を詰まらせ、目に見えて狼狽していた。
本気で付き合っているとは思っていなくても、呼び方の変化があまりに急だったからだろうか。
けれど、俺の知る島崎さんなら、すぐに順応するだろう。
そもそも、俺を男として好きではないのだから。
「うん?」
「どこ行ってきたの……?」
「あ、ちょっと東京まで」
島崎さんの唇が、かすかに震えた。
俺が東京に行ってきたのが、何かおかしいのか?
まさか、陽菜と行ってきたのがバレたわけじゃないだろうし。
たとえバレたとしても、そこまで動揺することはないだろう。
島崎さんが小さな声で尋ねた。
「なんで、なんで……?」
「なんでって、俺が東京に行ってきたら駄目な理由でもあるのか?」
思わず棘のある言い方で聞き返してしまった。
本当の彼氏だとも思っていないくせに、彼女気取りの物言いにカッとなったのだ。
心の中で深呼吸して気持ちを落ち着かせ、言葉を継いだ。
「……祖父とちょっと会ってきたんだ。悪い、今ちょっと疲れててさ」
陽菜に口止めされていたので、彼女とのデートが目的だったことは明かさなかった。
嘘はついていない――そんな建前だけの言い訳だった。
一刻も早くこの場を立ち去りたくて、マンションのエントランスへ歩き出そうとした。
「ま、待って!」
島崎さんが背後から俺の手をガシッと掴んだ。
初めて触れる初恋の相手の手だというのに。
嬉しいどころか、自分でも理由のわからない不快感が込み上げてきた。
「離せよ。暑苦しいんだ」
自分でも驚くほど冷たい言葉が口を突いて出た。
島崎さんも同じように驚いたようで、何も言えずゆっくりと俺の手を離した。
振り返って彼女を見つめた。
そしてもう一度深呼吸した後、できるだけ優しく尋ねた。
「話が長くなるなら、近くのカフェにでも行く?」
再び冷静さを取り戻し、島崎さんのことを考えた。
彼女は一年生の頃、俺を助けてくれた恩人だ。
感情的に接してばかりではいけない。
だからといって、自分の家に上げたくはなかった。
「……ううん、ここでも大丈夫。あくまで偶然会っただけだし、別に藤森くんに会いに来たわけじゃないから」
「そう?」
「彼女を放ったらかして、一人寂しく何してるのかなってただの興味本位よ」
「彼女、か……」
思わず乾いた笑いが漏れた。
「逆に聞くけど、島崎さんは俺のこと彼氏だと思ってる?」
「そ、それは……」
「まあ、違うよな。どうせ罰ゲームで仕方なくした、嘘告だったんだし」
「……え?」
俺の言葉に、島崎さんが呆然とした表情を浮かべた。
陽菜は夏休み中は島崎さんと別れないでと言っていたけれど、いざこうして向き合うと、その約束を守る自信がどんどん揺らいでいく。
今すぐにでも別れを切り出したい衝動に駆られた。
「島崎さん、今までごめん。俺が無理やりデートだと言って連れ回して嫌だったろ? これまで島崎さんの気持ちをちゃんと考えてあげられてなかったみたいだ」
「ま、全くその通りよ。私がどれだけ藤森くんに合わせてあげるのが大変だったか、ようやく理解したわけ? こんな健気な彼女、私以外にいないんだからね? 他の女だったらとっくに逃げてるわよ」
「はは、そうだな。だから俺、決めたよ」
島崎さんの目をじっと見つめて言った。
「これからは二度と、島崎さんを無理やりどこかへ連れ回したりしないって」
「え……?」
彼女は俺を求めていない。
ならば、俺は彼女を手放すしかない。
そんな単純な事実に気づくまで、長い時間がかかってしまった。
◇◇
大輝の背中が遠ざかっていく。
今度こそマンションのエントランスへと入っていった彼を、琴音は遠くから見送ることしかできなかった。
結局、何一つ叶わぬまま。
夏祭りという言葉を口にする機会さえなかった。
(手を繋ぐのを拒否されるのって、こんなに傷つくことだったんだ……)
行こうとする彼を引き留めようととっさに伸ばした手を、大輝は冷ややかな視線と共に振り払った。
植物園デートの時の彼の気持ちは、こういうものだったのだろうか。
琴音は今になってようやく、彼の心情を理解することができた。
気になる点はこれだけではなかった。
(私、ちゃんと藤森くんのこと好きなのに、なんで藤森くんは……)
私が彼のことを好きじゃないと思っているのだろうか。
いや、琴音も正解は分かっている。
罰ゲームで仕方なくした告白だと、バレてしまったからだ。
せめてさっきの場面で彼の言葉を否定して、『好き』という言葉を口にしさえすればよかったのだ。
(どうしてこんなことになっちゃったんだろう……?)
大輝の住むマンションの入り口前から立ち去れず、琴音はただ呆然と立ち尽くしていた。
綺麗に浴衣を着て、手を繋いで花火を見上げれば、すべてが上手くいくと思っていた。
単に大輝が手を繋げなくて拗ねているだけだ、と思い込んでいた部分もあった。
でも今の状態なら、たとえ一緒に夏祭りに行ったとしても、何の解決にもならない気がする。
(私の何がいけなかったの……?)
ここまでくると、植物園で彼が差し出した手を振り払ったことだけが原因とは思えない。
琴音はこれまでの自分の振る舞いを、記憶を辿ってみた。
自分に飽きられないように、かといって要求を拒絶しすぎないように、どう改善すれば関係のためになるのか、そんなことばかり考えながら接してきた。
(誘われた場所には、どこへだってついて行ったのに……)
進展が遅すぎたから?
嘘告したから?
自分から連絡しなかったから?
積極的に愛情表現をしなかったから?
照れ隠しのつもりで、度が過ぎるほどからかってしまったから?
デート代をほとんど彼に出させていたから?
「分からない、分からないわよ!!」
琴音はやり場のない感情をぶつけるように、地面を強く蹴った。
もっと進展させて、自分から連絡して、恥ずかしがらずに愛情表現して、デート代も割り勘にして——。
嘘なんかじゃなく、本当の気持ちを込めて告白していれば、今みたいなことにはならなかったのかな。
恋を含めて何もかもが初めての琴音には、地面に八つ当たりすること以外にできることはなかった。




