164 休憩室で一休み
よろよろとした足取りでソファへ進むデルフィーナは、頭上から降ってきた声にハッとした。
「随分疲れているようだな」
(忘れてた!)
いつもは休憩室奥の仮眠用ベッドを隠すための衝立を、今日はソファとドアの間へ移動させていたのだが。
その理由が、今デルフィーナへ声をかけた人物――アマデイ侯爵令息イルミナート・パスクウィーニだった。
ジェラルディーナの予想と違い、今日、ドナートはコフィアに来ない。
ドナートが来てしまうと“エスポスティ”がロイスフィーナを喰ってしまうから。
来客の意識をエスポスティが奪わぬよう、ドナートとカルミネはあえて来ない選択をしていた。
では、何かあった時はどうするのか。
子爵家の令嬢令息ではどうにもならない相手がトラブルを起こしたり、事故や急病人のアクシデントが起きたりと、何事か生じた時、招いている貴族達への対応をする存在として、イルミナートが待機していた。
いつもと違い、厨房はあまり使わないため、スタッフはこちらを休憩室兼用とし、イルミナートにはスタッフルームを使ってもらっている。
そもそもスタッフは総出で働いているため、休憩を取るのも交代で、虫養いを摘んだり用を足したりする程度だ。
イルミナートの相手は彼の従者に任せて、高級茶葉を始めとしたお茶一式と、今日出しているチョコレート菓子の全てを多めに休憩室へ用意していた。
そのことをうっかり失念して、デルフィーナはスタッフルームに入ってしまったのだ。
といっても休憩室は地下の窓がない部屋のため、ドアも厨房と繋がる明かり取りのための窓も全開になっている現状、ノックを忘れる失礼はせずに済んだ。
厨房入口でうずくまると邪魔になるから、とスタッフルームまで足を運んだのに、それが仇となった形だった。
情けない顔でイルミナートを見上げたデルフィーナがよほどおかしかったのか、イルミナートはくつくつと笑う。
彼の従者も品良く口元を隠しているが、確実に笑っている。
羞恥心に顔を赤らめながらデルフィーナは立ち上がった。
「お見苦しいところをお目にかけました」
頭を下げる形で一礼したデルフィーナに、イルミナートは鷹揚に頷いて手招きする。
「上の話を聞かせてくれ」
要望を出す形で対面に座ることを促す。
疲れているデルフィーナを休ませるのが目的だと明らかだったが、ありがたいお誘いのため、デルフィーナは素直にソファへ座った。
すかさずイルミナートの従者がデルフィーナにも紅茶を注いでくれる。
熱すぎないが冷めてもいないそれをありがたく受け取り、デルフィーナは半分ほどを一気に飲んだ。
たくさんしゃべって乾いていた喉に美味しさが染み渡る。
ふう、と息を吐いたら、芳醇な香りが鼻を抜けていった。
今日はエレナまでスタッフとして店へ出ているため、自力で淹れなければと思っていたのに、一手間省けた。
へろへろな姿をさらしたばかりに、イルミナートの従者にまで気を遣わせてしまった。
(しかも、美味しいわ)
いかに普段から淹れているか、紅茶は飲めばすぐに分かる。
イルミナートは日頃から紅茶を飲んでいて、それを彼が淹れているのだろう。
カップをソーサーに戻したデルフィーナは、顔を上げた。
「ありがたいことに、一階二階ともに盛況です。私がいたのは主に二階ですが、否定的なご意見は少ないようでした」
例え口に合わなかったとしても、その場で言葉にする品性の方は居られなかったようだ。
それぞれの菓子への感想も、耳にした限り、概ね良い感じだった。
イルミナートも頷きながら、オランジェットを摘み上げる。
「並ぶ菓子は、チョコレート以外にも目を引くものが多い。随分一気に出したと思うが、大丈夫なのか?」
「そうですね。そもそものチョコレートを使う量を減らすために、少量を混ぜるとかコーティングといった手法での調整が必要でしたので色々と出しましたが、コフィアのスタッフも増えましたから、何とかなっております」
「今のところは、か」
「はい。チョコレートをお求めになる方が増えた場合は、店を分けるか、工場を作っての対応になると思います」
カカワトルの輸入は、南大陸からなので安定している。
エスポスティ商会がガッツリあちらの農園と契約を結んだとかで、入る量が格段に増えた。
あとはコフィアのスタッフとして確保したはずの面子をチョコレート専門にしてしまえば何とかなる。
もちろんスタッフの意向は確認した上でだが。
コフィアの二号店を出すよりも、工場の方がいいような気もするが、コフィアの菓子とは別にして、チョコレート専門店を構える方がいいかもしれない、とも思う。
そこら辺は、今日の予約状況と、チョコレートの販売がスタートしてからの売れ行きで判断となる。
「早めに動いた方がいいぞ。今日食べた限りでは、これはかなり人気を博す。諸外国へも出せる一品となろう」
「国外へ、ですか?」
「ああ。我が国の菓子として晩餐会に出せば、近隣国の大使から問い合わせが入っても不思議はないな」
チョコレートボンボンを摘まみながら頷くイルミナートに、デルフィーナは目を瞠る。
画期的な菓子なのは分かっていたが、ともするとアイスクリームよりも上の扱いのようで驚いた。
(そうか、氷菓は溶けるから大量の輸出はできない。でもチョコレートならできるわ)
溶けるのはチョコレートも同じだが、融点が違う。
涼しい季節に、あるいは氷で冷やしつつ運搬可能なチョコレートなら、他国から求められても応えられる。
時間停止の魔法を使わずとも済むのは大きい。
「二階には伯爵や子爵だけでなく、公爵夫人も紛れているだろう? 噂は確実に宮廷にも流れるぞ」
自身の姉が来ているのを知っているイルミナートは、確信を持って言う。
「そうですね……それに、公爵家の貴婦人もいらっしゃいましたし」
「貴婦人?」
「ジェラルディーナ・レーア・ヴォルテッラ様ですわ」
その名がデルフィーナの口から出たことにイルミナートはちょっと驚いた様子を見せたが、すぐさま納得したようだった。
「アバティーノ公爵閣下は不参加と聞いていたが、名代がいらしたか」
「いえ、お忍びだそうですわ。別の伯爵夫人のお連れ様としていらしたようで」
「……そうか」
イルミナートはこめかみを指先で押さえた。
ジェラルディーナ様のやりように呆れたか、あるいは頭が痛んだか。
「そのジェラルディーナ様とお話されていた紳士が、とても雰囲気のある方で――ジェラルディーナ様が、気を遣っていらっしゃるようで、私もかなり緊張しましたわ」
デルフィーナがへろへろとなった一番の要因は、確実にあの方だったと思う。
もちろん他のお客様にも緊張したが、公爵家の貴婦人が「高貴な方のご子息」と表現するほどの方だ。
他の公爵家の方か、はたまた他国の高位貴族か。
デルフィーナには推測できなかったが、ともかく失礼があってはならないと、しかし身分を隠しているなら慇懃な対応をし過ぎるのも他の客の目がある場ではまずいかと、さじ加減に苦慮した。
深い溜め息を吐いたデルフィーナに、普段の“身分差を忘れがち”な彼女の性分を知っているイルミナートは、心の中で首を傾げる。
「ほう? どんな方だ?」
「年の頃は、ジェラルディーナ様と同じくらいでしょうか? 若めの、でもアロイス叔父様よりは年上で、カルミネ叔父様よりは下かなと思える紳士ですわ」
「ふむ。二十代半ばか」
「おそらく、ですが。
お召し物はイルミナート様と同等でしょうか。上質なベルベット地の上着にタフタのシャツ。たっぷりとした袖はレースや刺繍こそないものの、シンプルだからこそ生地の上質さが分かりました。
簡素なデザインで小ぶりなアクセサリをまとっていらっしゃいましたが、使われている宝石は透明度が高く色の濃いものでしたね」
北大陸では概ね濃い色の宝石の方が尊ばれる。つまり、小さくてもそのお値段は、大ぶりの石よりよっぽど張る。
透明度が高いとなれば尚更。
「靴も、艶のある黒の革靴で、こちらもいい職人の仕事だと思えるものでしたわ」
「よく見ているな」
イルミナートの言葉に、デルフィーナはにこりと笑みを返すに留める。
これらの知識は、エスポスティ家で教育されているうちの一部だ。
人を見る時に、その召し物は一つの判断材料になる。
商人として目を養うことは必須であった。
「アッシュブロンドというのでしょうか? 眩しさのない落ち着いた金髪で、少しうねりのある髪を、オールバックにされていました」
「目の色は?」
「ええと、目の色は、グリーンがかったブルーでした。湖水のような。薄い色合いで、まるで透き通った水のようでしたわ」
薄い目の色はアバティーノ公爵で慣れたと思ったが、こちらもまた吸い込まれそうな瞳で、じっと見つめられたら魂を取られそうだな、とちょっと怖さも感じさせた。
応対で緊張したのは、あの目もあったからだと思う。
思い返していた思考を切ってイルミナートを見上げれば、ものすごい渋面になっていた。
(え? なに?)
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※追記
「虫養い」につきまして、感想と誤字報告をいただきました。
京都を中心とした関西圏の言葉ですが、茶道で使ったりもしますので、現状このまま使い、ルビを振ることで対応とさせていただきます。
関東圏の言葉に置き換えるなら「虫押さえ」となります。
意味合いは「軽食」「間食」です。








