114 カカオバターとココアケーキ
しばらくすると、マヨネーズがふるふると動きを見せ――油と、それ以外に分かれた。
「できた!」
「ええ、できたわね!」
少量のマヨネーズは、しっかりくっきり皿の左右で色もテクスチャーも変わっている。
スプーンで掬って確認したが、確かに油のみになっていた。
「素晴らしいわウベルト! このまま、もう一つ挑戦してみましょう!」
興奮したデルフィーナは、ずっと石臼を回していたリーノから、カカオマスを受け取る。
白い陶器の深皿に入ったカカオマスは、どろっとした土のような見た目だが、明らかに香りが違う。
フィルミーノに指示して、デルフィーナはガナッシュを出してもらった。
これは、前に作って保存していたものだ。
「食べてみて」
デルフィーナの言葉に、フィルミーノがフォークを差し出す。
それを受け取ったウベルトは、思い切って一口でぱくりと食いついた。
「!!」
舌の上でとろける食感。鼻に抜ける香り。えもいわれぬ美味しさがウベルトの口いっぱいに広がる。
溶けて消えてしまったそれを惜しむように、ほうっと息を吐いてから、ウベルトはデルフィーナを見つめた。
「……なんですか、今のは……」
心なしか声までうっとりしている。
「“チョコレート”よ」
「チョコレート……」
ぼんやりしているウベルトに、ちょっと食べさせるのが早すぎたか? と思いつつも、夢見心地な彼の覚醒を待つ。
チョコレートの衝撃を先に受けていた他の面々は、さもありなん、といった気分で見守る。
「ものすごく美味しい食べ物ですね」
「ええ、そうでしょう? でもこれ、まだまだ改良の余地があるのよ」
「えっ、そうなんですか?! こんなに美味しいのに?」
「他に色々使えるように、加工したいのよ。でもそれには、この<カカオマス>から<ココアバター>を抽出しないといけないの」
テーブルの上にあったカカオマスの深皿をデルフィーナは手に取る。
「この中にも油が含まれているの。とっても美味しい油が。これを、マヨネーズにしたみたいに、分離させられるかしら?」
ウベルトはゴクリと唾を呑む。
その口腔内にはまだチョコレートの香りが残っている。
「やってみます」
今食べたものより、更に美味しくできるのなら。
油とそれ以外に分けるのなら。
マヨネーズにしたみたいに、できるはずだ。
ウベルトはカカオマスの深皿を受け取ると、そっと魔法をかけた。
マヨネーズの時と同様に、ふるふると動いたカカオマスは、皿の中で二色に分かれる。
カカオバターと、ココアケーキに。
「……!」
「やった!」
「できましたね!」
「すごい、くっきり二色ですよ!」
「最高だわウベルト!」
ほっとウベルトが肩の力を抜いたと同時に、他のスタッフからバンバンと背や肩を叩かれる。痛くはないそれに驚き励まされ、ウベルトはやっと笑顔になった。
最後にかけられたデルフィーナの声がなによりウベルトには嬉しい。
多分自分は、このために選ばれて、ここにいるのだとわかったからだ。
「これで、チョコレートの種類が増やせるし、チョコレート菓子の幅が広がるわ」
しみじみと喜びを噛み締めるように、デルフィーナが呟く。
その小さな声を、料理人達は聞き逃さない。
「それは本当ですか!」
「チョコレートにそんなに種類があるのですか?」
テンパリングしていたイェルドとオノフリオが、手を止めてデルフィーナに目を向ける。
「ええ。これでホワイトチョコレートと、ココアパウダーが作れるわ。この二つがあれば、かなりアレンジができるようになるの。
大手柄よウベルト! 明日から――いえ今日から、無理のない範囲でカカオバターの分離をさせてちょうだい。元のカカオマスの管理はイェルドがしているから、詳しいことは彼と決めてね」
ニコニコと笑むデルフィーナは屈託がない。
きっと、明日からの毎日はとても忙しないものになるのだろう。それでも、その分賃金は高いとネリオからもアロイスからも聞いている。
文字もまだ完璧には読めない、田舎育ちの自分が、こんなに人を喜ばせられるなんて。
役にも立たない魔法だと思っていた自分の固有魔法が、こんなにも歓迎されるだなんて。
デルフィーナに出会うまで、考えたこともなかった。
強引に向かわされた面談に戦々恐々としていた日が懐かしい。
あれから一月も経たないのに、遠い過去のように感じる。
しがない店の、しがない店員だった自分を見出してくれたこの人に、この店に、精一杯尽くそう。
改めて心に刻んだウベルトは、この日、魔力切れ寸前までカカオバターとココアケーキの分離に勤しんだ。
クッキー、パウンドケーキ、マカロン、生チョコレートのコーティング、メレンゲ、フィナンシェ、マドレーヌ、ブラウニー。
ざっと考えただけでも、ココアパウダーを使うお菓子はこれほど浮かぶ。
チョコレートそのものを使う菓子はもちろん他にも色々ある。だがデルフィーナの知る焼菓子の多くは、チョコレートの風味をつけるのにココアパウダーを使っていた。
ココアパウダーを使えば、クッキーやパウンドケーキを簡単に二色にできる。その効果はとても大きい。
クッキーは市松模様にしたり渦巻きにしたり、型抜きでトランプを作ったりとかなり遊べる。
パウンドケーキはマーブルや二層などにできる。ナッツやドライフルーツを入れなくても見栄えが良くなるのだ。
味と香りだけではない、見た目にも大きな影響が出る。それがココアパウダーだ。
コフィアで、どの順に出していくか。
提供する順番を決めないと、作る側売る側も混乱しそうだ。
日中の実験――ウベルトの成功から、ずっとわくわく気分が続いている。逸る気持ちを抑えられないまま、デルフィーナは思いだしたものを端からレシピに書き起こす。
(チョコレートってこんなに興奮作用あったっけ?)
オノフリオがイェルドと競ってチョコレートを試作するため、今日はいつもより多く食べてしまった。
自身がまだ幼い身体で、かつ、今生では刺激物を摂ることが少ないため、効き過ぎていることに無自覚なデルフィーナ。
結局、かなり夜更かしをして、クラリッサに叱られるまで、ペンを走らせていた。
「わぁ、かなりたくさんあるんだねぇ」
感動とも呆れとも取れる声を零して、アロイスは渡されたレシピの束をペラリペラリと捲った。
「そう、かなりたくさんあって、正直困っています」
「うん」
「どれからコフィアに出せばいいのやら」
「そうだねぇ」
店で出すチョコレートはまだ完成していない。
オノフリオが参加したことで、より良いものにできそうだが、なにせ店自体が忙しい。営業日の閉店後に試作をしているが、時間があまりない。
それぞれの好みもあるため、中々「これ」といったチョコレートを生み出せていなかった。
昨日、ウベルトの実験をする傍らでチョコレート作りに励んでいた料理人二人の中では、かなり好感触なものが出来上がりつつあるようだが。あと一歩、と話していた。
その点、ココアパウダーを使う菓子は、レシピどおりに作ればいいだけだ。
アレンジするとしても、それは先々の話。まずはレシピどおりに作って、それをベースとして作り手にも客にも定着させてからとなる。
チョコレートを売り出すのと同時に、“チョコレートより安価なチョコレート菓子”を出すつもりでいる。
つもりではいるが、では、どの菓子がいいのか。
「あんまりチョコレートを多く使わないものがいいかもねぇ。チョコレートが入っているけれど、チョコレートより安い、ってするのならねぇ」
「ですよね」
「あとは、小さくてもチョコレートだって見た目でわかる方がいいかも」
「色と香りだけでは不十分ですか」
「うん。本当に入っているのか? って言われるでしょ。チョコレートを買えない人には、同じ香りなのかわからないからねぇ」
「確かに」
チョコレートに手が出ないから、代替として“チョコレートの入った菓子”を買うのであれば、小さくてもチョコレートの見える菓子の方がいい。
ココアパウダーを使うのでは、それと分からないため、「チョコレートを求める客」には受け入れにくいかもしれない。
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