38
漠然とした世界から解き放たれて、僕はばあちゃんの一声で僕にとって緊張に満ちた世界に引き戻された。しどろもどろに言葉が漏れるだけ、ばあちゃんの言う意図を僕が伝えることは出来なかった。僕の口は満足動いてくれないらしい。
口をもごもごと動かして、出来るだけ視線を逸らして、時間を稼ぐために僕は身じろぎをするだけだ。かなり哀れな姿だと思う。けれど、実際問題、自分の最悪の想像の通りに事が運んだら誰だってこうなるはずだ。こうはなって欲しくないと願っていたのに、モノの見事にそれが的中してしまっているんだから。果たして、僕はどうすれば良いのかしら?
いや、するべきことはただ一つだ。まず、この場を平穏無事に終わらせることだ。僕が出来ることは、たったそれだけだ。けれど、その唯一の仕事が僕にとっては酷く難しいんだ。何せ、僕の今の混乱する脳じゃまともな嘘も吐けないんだから。八方塞な状況だ。
共同不審に冷や汗を垂らしながら、僕は嘘を考える。だけれど、その裏でよくよく考えれば僕がばあちゃんに嘘を吐いて、まともに通用したことはただの一度も無い。つまり、僕が二重思考でやっていることは全部無駄ってことだ。それじゃあ、真実をばあちゃんに伝えるか? 僕としてはそっちの方が、よっぽどぶっ飛んだ行動だと思う。何も知らない人に、いきなり怪異が隣に座る美麗な先輩に憑りついていて、その憑りつく化け物の正体が貴女のお母さんだなんて、夢か現かの区別がついていない異常者だと思われる。一人暮らしをし始めた孫がたった一年で、頭のネジが外れたなんてことが分かったら、僕の理想の暮らしはきっとばあちゃんに奪われる。というか、それ以上に僕の存在を秘匿したくなると思う。むしろ、ならない方がおかしいと思う。
こう考えてみると、本当にどうすれば良いのか分からなくなる。二重思考なんていう器用なことをやってみたけど、それにも限界が来そうだ。あと、根本的にばあちゃんの痺れがきれそうで怖い。この人、怒ると滅茶苦茶怖いんだよなあ……。
「おばあ様、杏子君がおばあ様のお母様を尋ねたのは、たまたま学校でおばあ様の名前とお母様の名前を見つけたからです。そして、きっと杏子君は今、自分の想像していたことと現実がピッタリ一致したことに驚いているんですよ。ですから、こうしてアホっぽい表情を浮かべているんですよ」
「ああ、そうなのかい。そうなんだね、杏子?」
「う、うん。そうだよ、ばあちゃん。本当に、偶然、たまたま学校の書庫の整理を手伝っていたら古い本が出てきてね、そこにばあちゃんとひいばあちゃんの名前が書いてあったんだよ。それで、まさかって思ってさ、今こうしてここに居る訳なんだけど」
追い詰められ、半ば真実を話そうか話すまいか最後の決断まで追い詰められた僕の下に、天使の助けが来た。先輩は爽やかに微笑みながら、ばあちゃんに見事な嘘を吐いて見せた。その時、全開にした戸から風が吹きこんだことにより、清楚を体現したような先輩の雰囲気はさらに煽られた。そのおかげか、ばあちゃんの嘘を見抜く慧眼の注意を上手く逸らすことが出来た。流石のばあちゃんも先輩のふわりと舞う、銀糸のようにきらめく髪の美しさには敵わなかったようだ。
僕は先輩の手を借りて、この危機を乗り切った。もっとも、先輩が整えてくれた舞台なのに、ばあちゃんの視線が僕に向いた瞬間、僕の口はまごついて、少しだけ失敗した感が否めない。そんな僕の失敗を咎めるように、先輩は肘を僕の脇腹に入れた。滅茶苦茶痛い。
「それにしても、まだそんな本が残ってるんだね」
「まだって、ばあちゃん旧校舎に何か思入れがあるの?」
そうだ、けれど、僕が思い浮かべる最悪の結末はまだ決まった訳じゃない。ほとんど、決まったようなものだけれど、僕はそれでも反発をしたい。僕は先輩の中に潜むアレを、どうしても僕の先祖だって認めたくないんだ……。
浅ましい抵抗だと思う。それでも、僕は軽薄に知らんぷりをして、懐かしそうに瞼を閉じてそっと優しい言葉で紡ぐばあちゃんに尋ね返す。目を逸らすことの出来ない現実が、そこに現れていようとも、僕はもがき続ける。
「まあね。あそこは私の青春時代の象徴だからねえ。物心つく前から、二十二歳まで過ごした家を忘れる訳ないんだよ。杏子がこの家を忘れることが無いように、私もあの家を忘れることが出来ないんだよ。私より年上だった学生さんの声、歳を追い越して少しだけ年下になった若い人たちの声を今でも忘れないよ。今よりも少し夏が深まった時、長森市に襲来した米軍機の独特なエンジン音も、焼夷弾の臭いも、燃える街の景色もね」
「そうなんだ……」
「少しだけ湿っぽい話になったねえ。けど、あの家には、いや今は学校の校舎だったね。あそこには私の思入れがあるんだよ。それに杏子のひいばあちゃんが残してくれた色々な本もね。それが、まさか、私の孫に見つかるなんてねえ」
ばあちゃんは僕に優しく微笑みながら、けれど、瞳の奥では昔の情景を見出しながら、僕に事の真相を知らず知らずに教えてくれた。ばあちゃんからしたら、僕とひいばあちゃんとの出会いを喜んでもらうために僕に教えてくれたんだ。僕もばあちゃんに、そう答えてもらいたくて、嘘っぱちの言葉を紡良んだんだから当たり前だ。
でも、僕の嘘は、僕の内面まで欺くことは出来なかった。やっぱり、現実は変わらない。定まった運命は変わらないんだ。僕はあの怪異と同じ血を引いている。そして、ばあちゃんも、母さんも、皆あの怪異の奇妙な血を引いているんだ。それが、今現実として目の前に提示された。信じたくないけれど、それを信じなければ僕は自分のご先祖を否定することになってしまう。だから、僕も信じよう。信じなければならないんだ。
受け止めきれない現実に打ちひしがれようとも、僕は先輩の身を自由にするために動かなければならない。それと、単純に僕が気になることも聞かなければいけない。ひいばあちゃんのことは分かった。僕の女性らしさの由縁を、僕は先輩の中に潜むあいつから受け継いだ。それなら、僕の男らしい部分を僕に与えてくれた人は誰なんだ? この弱々しさは間違いなく、親父から貰ったものだと思う。そして、誠実さはじいちゃんから貰ったものだ。それなら、この探究心は誰から貰ったんだ?
僕はそれを知りたい。誰かから貰った、探究心を根ざして、僕はばあちゃんに尋ねたい。ひいじいちゃんのことを。
「ねえ、ばあちゃん。もう一つ、聞いていい?」
「私に答えられる範囲だったら何でもいいよ」
神妙な雰囲気を醸し出す僕の声色に反して、ばあちゃんは相変わらず落ち着き払った調子で言葉を返す。どことなく、吹き込んでくる夏風も柔らかく感じられる。
「僕のひいじいちゃんってどんな人だったの?」
ただ、僕がその言葉を紡いだその時、柔らかい雰囲気は一瞬にして崩れ去った。しなやかな空気は一気に刺々しくなった。空気は茨のように巻き付いて、僕らの肺を凍えさせる辛いものに代わって行った。じいちゃんですら、あの寡黙で滅多に恐れることの無いじいちゃんが肩を震わせてるくらいには雰囲気が変わった。
「杏子。お前のひいじいちゃんは、最低最悪の人間だよ。私を身籠ったお前のひいばあちゃんを残して、自殺するような無責任甚だしい人だよ。茨木さんと同じ作家なのに、夢を語る存在なのにもかかわらず、自分の子供に夢を見せずに死んだロクでも無い奴だよ」
ばあちゃんは刺々しく、怒りの籠った口調で、僕にそう言って見せた。その瞳の奥には、怒りの炎が籠っている。
ご覧いただきありがとうございます。
もし、この作品を良いと思った方は広告下の☆マークを押して頂けると作者としては嬉しい限りです。




