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家に上がったばあちゃんは、足を止めることなく真っ直ぐと今まで向かってきた。
やっぱり、気丈な人だ。背筋もピンと伸びているし、物言いもはっきりしている。何より病気をしない。この歳になっても、体調を壊さずに今まで生きているんだからすごい。もっとも、その体質は僕にも受け継がれているらしく、小さな時から風邪になったことが無い。このことばかりは、ばあちゃんに感謝しないとだ。けれど、親父も風邪を滅多に引かないらしいからもしかしたら親父の遺伝かも知れない。それだったらそこはかとない感謝を親父にあげよう。まあ、言葉として送るのは気恥ずかしいから花の一つでも送ってやろう。というか、僕が送るより、僕に対する仕送りを多くしてほしいな。あの人、仕送り金額適当にし過ぎてる。もっとも、家賃光熱費は親父が負担してくれているから格別生活に支障をきたしてる訳じゃないんだけどさ。
ばあちゃんの家に、日本に居ない親父に対する文句はさて置いて僕はようやく目的の人と出会えた。去年まで一緒に住んでいて、最後まで僕の一人暮らしに反対した過保護気味な祖母に会えたんだ。歳の割に若々しい肌、日本人にしてみれば少しだけ高い鼻、真っ白けの天然パーマ、それにじいちゃんと同じような着古してよれよれになった白い下地に花柄が施された長袖シャツを着た、背の小さい気の良さ気なおばあちゃん。僕はこの人に用があるんだ。
「ただいま、ばあちゃん。いや、お帰りって言った方が良いかな?」
「どっちでも良いよ杏子。おや……? そちらは杏子のガールフレンドかい?」
帰ってきたばあちゃんは額に汗を浮かばせながら居間に力強い歩みで上がろうとした。けれど、その一歩手前で立ち止まって先輩のことをジッと見る。その視線はどこか、人を値踏みするような打算的な光が灯っているようで僕は気まずい心持ちになった。何せ、今ばあちゃんが先輩に向ける視線は先輩が一番嫌いなものなんだから。というよりも、ばあちゃん自身も嫌っている視線だ。だのに、ばあちゃんは自分が嫌う眼差しを示してしまっている。じいちゃんと先輩とは、上手いこと分かり合えたのに……。
「おはようございます。おばあ様。残念ながら私は杏子のガールフレンドではありませんよ」
もちろん先輩も自分に向けられている視線の意味を理解している。普段から嫌と言うほど浴びせられているんだから、分からない方がおかしいんだ。だから、僕の隣に座る先輩は一瞬、ほんの瞬きの間、冷徹な雰囲気を醸し出して、僕の体感温度のグッと下げると、すぐさまその雰囲気を元に戻して造り上げた笑みをばあちゃん向けた。
ただ、値踏みするような視線を向けるばあちゃんも、じいちゃんと同じで先輩の顔を見るとビクッと体を震わせて敷居で立ち止まった。普段は誰を見ても驚かないし、例えお偉いさんが居ようとも普段通り接するばあちゃんがこんなことで体を止めて、呆気にとられたように、ほとんどじいちゃんと同じような反応見せるなんて言うのは珍しいことこの上ない。いや、珍しいというよりも僕は見たことない。それに口をわなわなと震わせて、目をギョッと開いた感激染みた表情も見たことが無い。それに小さく口を動かして、何か聞こえない声でブツブツと呟いているなんて姿も。
「清李さん、大丈夫かい?」
「ええ、少し驚いてしまってね。あの子にそっくりでねえ……」
「やっぱりそう思うかい? まるでこの子はあの子の生まれ変わりみたいだよ。可愛らしくて、美しくて、儚くて」
呆気にとられているばあちゃんにじいちゃんは、その吹き飛んでしまった平生を取り戻すために優しい声を掛けた。するとばあちゃんは、すぐさま普段の調子に戻って安らいだ声色でじいちゃんと一緒に阿吽の呼吸をするように声を紡いだ。そして、普段よりも随分と優しい視線でもって先輩を見た。あまりにも早い視線の代わり様に先輩は驚いて、目を何時もよりも大きく開いている。赤い瞳が美しく、差し込んでくる刺々しい光の影響でキラキラと光っている。それか、根本的に先輩の持つ潤いのおかげかも知れない。
どちらにせよ僕は吸い込まれるような魅力を持つ先輩の瞳に暫時、意識を奪われた。いや、意識が奪われたというよりも先輩の瞳以外の全てが僕の認知下から消えたって言った方が正しい。もっとも、それを意識が奪われたと言っても良いのかもしれない。
ただ、僕から意識を奪った張本人が脇を肘で突いてくれたお陰様で僕の意識は立ち戻った。気付いた時には、机を挟んだ向こう側にばあちゃんが行儀よく正座で座っていた。ほんのり微笑むいつもよりも上機嫌だっていうことの証だ。そして、そんなばあちゃんに敵対心を向けていた先輩の牙はすっかり収められていた。きっと、ばあちゃんが先輩向けた値踏みの視線の真意に気付けただからだと思う。過保護な人の心持ちを先輩はそれなりに理解したんだ。
僕は両者の和解に胸を撫で下ろす。本当に良かった。こんな本題から随分と離れたところで、気を遣い続けるなんて状況に陥らなくて。マジで、そんなことになってたらきっと僕の胃は擦り切れていたと思うし、あの悪夢をより見るようになったと思う。
最悪の状況を回避することが出来て、なおかつ連絡も無しに帰ってきた僕に対する不満もこれと言ってない様子は最高の状態だ。言葉の端々に気を遣わなくて良いんだからね。
穏やかな状況を確認した僕は、微笑を浮かべながら先輩のことを見るばあちゃんに向かっていよいよ本題を切り出す。
「ねえ、ばあちゃん」
「なんだい、杏子?」
「帰ってきて早々にこんなことを聞くのも変かもしれないけれど、教えて欲しいことがあるんだけれど良い?」
「ああ、良いよ。私に答えられることだったら何でもお聞き。老人にできることは、自分の後始末を自分ですることと、小童どもに世話を焼く、それから後世に自分の経験を残すことくらいだからね」
ばあちゃんは、僕の言葉にほとんど若者と変わらない張りのある大胆な笑い声で答えた。昔から変わらないよく通る声は、人の居ない大きな家によく響く。外で最後の命を燃やして、絶歌を時間の限り歌いつづけている蝉よりも響く?
いや、それは誇大的な例えだ。大体、ばあちゃんの声が蝉の鳴き声よりも大きかったら僕の耳はやられている。もっと、まともな例えがあるはずだ。けれど、今はそんな悠長に下らない僕の例え話を是正してる暇も無い。口淀んでいては、何も始まらない。意を決した時にすべてやった方が良いんだ。
「それじゃあ、心置きなく聞けるね」
「任せなさんな。答えられる範囲だったら何だって答えあげるよ。ただし、後で久々にピアノを弾いてみせてくれよ。私はお前のピアノが好きなんだよ。親父さんより、かなり劣るけどねえ」
「最後の一言が余計だよ。大体、親父はプロだ。あれくらい上手く弾けないと駄目だ。それでお金を貰って、それでご飯を食べているんだからさ」
「まあ、確かにそれはそうだね。お前の親父さんはマイスターだからね。でも、そんなことはともかくおピアノを弾いてくれるかい?」
「うん、上手に弾けるかどうかは分からないけれどね」
ばあちゃんとの取引を完了させると、取引相手は口角をニッと上げた。年相応の皺があるけれど張りのある肌も同じくして引き上げられた。そんなばあちゃんと同じくして、じいちゃんの口角も上がっていた。微笑じゃない。唇の両端が引きあがっているんだから。
そんな二人を前にして僕はいよいよ本題に入る。余計な枕詞が多かったけれど、本題に入れるんだったら何だって良いさ。僕は一度場を引き締めるために、似合わなくて軽い咳ばらいをした。こういう場の締められないところは本当に親父によく似たんだとつくづく思う。
「ばあちゃん、家族のことなんだけれど」
「うん、家族のなんだい?」
藪から棒に家族のことを唐突に問われたばあちゃんは、腕を組んだまま声を曇らせた。
ただ、僕はそれでも質問を続ける。
「僕のひいばあちゃんの名前って知ってる? ばあちゃんのお母さんの名前」
「ああ、もちろん知っているとも。私のお母さんの名前は、九十九だよ。まあ、声は聞いたことは無いし、お乳も飲んだことは無いけれどね」
ああ、やっぱり、そうだったんだ……。
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