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燦々と照りつける坂道を僕と先輩は上って行った。相も変わらず痛いくらい晴れた渡った青空は、僕らに容赦なく夏を示してくる。空だけじゃない。丁度、僕らが上っている緩やかな坂の正面に横たわって連なる山々は、その盛る緑を青空に映えさせて、こちら側に喧しくて仕方が無い蝉の鳴き声を送ってくる。命の盛りを感じられるけれど、僕としては気が滅入るだけだ。何せ、歩けど歩けど景色は変わらないし、むしろ山が僕らに近づいていてくる印象だ。雄大で、命に満ち満ちた越後平野の片隅だってことを考えさせられる名も知らない山がその巨体を僕らに近づけてきてるようで、心持ちは減衰する一方だ。僕が臆病者だからかもしれないけど、大きいモノはあんまり好きじゃないんだ。どうしても、自分の存在が矮小に見えちゃってね。
ともあれ、僕らは確実にばあちゃんの家に近づいている。ばあちゃんはこの坂を上った先、ちょっとした丘の上に平屋の一軒家にじいちゃんと一緒に仲睦まじく住んでいる。爺ちゃんはずっと農家でやってきて、婆ちゃんは小学校の音楽の先生をしてきた。爺ちゃん曰く、昔にしては珍しく理性的で、人のことを正しく見れる良い先生だったらしい。今はこの坂道を下って、右に曲がったところにある片山小学校で学童のお手伝いをしてる。きっと、昔っから子供と音楽が好きな人なんだ。僕にもピアノを親父と一緒に教えてくれたし、とても可愛がってくれたしね。
あと驚くほど身体が丈夫な人だ。爺ちゃんも含めてだけど、あの人たち腰も曲ってないし、僕の誕生日だとか結婚記念日だとか色々な物事をはっきり覚えているし、言葉もおかしな調子にならず言えているし、何よりこの坂を息を荒げることなく、てくてくと普通に歩くんだ。しかも、それなりに重い荷物を持ってだ。人体の神秘だよ。あの人たち、何か知らないけどばあちゃんの家にある畑で採すぎた農作物を学童の迎えに来た親御さんにあげるのが趣味だ。いや、趣味って言うよりもお節介焼きって言った方が良いな。それだから、あの人たちは一輪車と作物とで重い荷物を持って下の小学校まで持ってって、また坂を上って帰ってくる。そんなことを週一回のペースで繰り返している。本当に気丈で丈夫な人たちだ。しかも、それは軽トラがあるにもかかわらずやってることだ。もっとも、今はほとんど運転しないで、隣の家の定年を迎えたばっかりのおじさんに運転してもらってるやつだけれど、それでも楽な移動手段があるにもかかわらず、あの人たちはこの緩やかだけど長い坂を歩いくんだから尊敬するよ。
ちなみに、僕の体力はそろそろ尽きそうだ。僕の前を歩く先輩の足取りは、鳥の羽のように軽やかで、とても楽しそうだ。綺麗なポニーテールが揺れて、髪の一本一本がはらはらと落ちていく瞬間、日照りに美しく反射して輝く。僕の目はそこに、それと汗ばむ先輩のうなじに目が行く。ただし、僕の足は僕の心持ちに反して重くなって行く。両足に疲労が蓄積されて行く。というよりも、ここ最近の疲労がドッと出て来たって言う方が正しいのかもしれない。それだから、足の以外にも僕の息は上がり始める。
「杏子、遅いわよ。もしかして暑さにやられたの? それとも体力切れ?」
先行く先輩は、立ち止まって、身体を翻して僕の方を見ると首を傾げた。こてんと首を傾げる様は、普段の大人びた様子からは考えられないほど可愛らしい。無邪気なその表情も。そして、僕も立ち止まって、両膝に手を当てる。
「両方です……」
「体力が無いのね」
「自分でも驚いてますよ。昔は難なく上れてた坂が、今やこんな辛い坂になっていることに」
「時間の流れって残酷ね。まあ、杏子の場合は単純に運動不足。アパートから学校までそう遠くないし、ゆっくり歩くし、休みの日は大抵家の中でだらけているから、坂を上るが辛くなって当然よ」
「ごもっともです……」
体力を失い、見っとも無い姿を見せる僕に先輩はぐうの音も出ない正論をぶつけてきた。もちろん、先輩のその言葉に反論するつもりは一切無い。事実だからだ。最近の僕自身も思っていたことだけど、僕は動かな過ぎる。それこそ先輩の言った通り、休みの日なんて家に籠ってずっと本を読んでいて、外に出かけた記憶はこの半年間、数えるほどしかない。陽太がサッカー部で忙しかったって言うのも、あるだろうけど、それにしても休みの日に太陽と青空、もしくは雨と曇天を見た記憶は一切無い。これからは、少しくら運動しようかな、せめて散歩くらいしない僕はキノコになってしまう気がするからね。それに、秋の暮れごろとか冬に成ったら僕は寒さに参って動かないだろうし、だから今のうちに動いておこう。
さて、そんな僕の叶えられそうにも無い願望を心の中で吐いたところで、僕の体力が戻ってくることは無い。呼吸のスパンのつまり、足の疲労感とかが僕の身体から消え去ることは無い。既に使われたモノが、戻るまでには時間がかかるんだから。
「ふふ、でも私が早く歩きすぎたのもあるかも。だから、今からゆっくり歩きましょ。そしたら、杏子の負担も少ないだろうし」
疲労感を抱えた僕に先輩は近寄って、クスリと笑った。顔を上げると後ろの山の緑の中に、先輩の白い髪と肌と僕を引きつける笑顔がくっきりと映えていた。それと同時に僕は僕の心の中で、先輩に気を遣わせてしまったことの罪悪感を抱く。
でも、こんな罪悪感は下らない。先輩がそう言っているんだから、僕は先輩の言葉を享受しよう。
「ありがとうございます。是非、僕と一緒に歩いてください」
「そうしましょ。私も少し早く歩きすぎて、せっかくの景色もほとんど見てないし。せっかく、こんな美しい自然があるのに、これをみすみす逃すなんてもったいないわ。時間的にも、私の人生的にもね」
先輩の言葉が終えると、山の方から風が吹いてきた。その風は珍しく涼しかった。きっと、山の木立の間を通り抜けてきた風なんだろう。緑の香りがふんだんに込められている。そして、緑の風は坂道の両脇を彩る雑草畑をザッと揺らめかせた。草と草が擦れる心地のいい音がする。
ああ、しばらく聞いていなかった自然の音だ。雑踏の音じゃない。自然が自然の中で織り成す麗らかな調べだ。なんでこんな詩人みたいなことを言っているんだ?
まあ、いいや。ともかく、進もう。
「先輩、それじゃあ行きましょう」
「ええ、行きましょ」
先輩と僕は足並みを揃えて、二人と揃って残りの坂道を上って行く。ばあちゃんの家までは、もうすぐだ。本当にもうすぐだ。きっと、あと五分もすれば辿り着くはずだ。その間、僕は先輩と微笑みながら坂を上って行く。短いランデブーだ。
蝉の鳴き声がうるさい。山の大きさが僕を圧倒する。夏の日差しは、じりじりと僕らの肌を突き刺して行く。けれど、僕と先輩の緩やかな関係は続く。落ち着いて、優しい歩みは……。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「やっと着いた。懐かしの場末通り」
それから僕らは十分くらい歩いたと思う。
ついに坂は終わりを迎え、平坦で広い土地が臨めるようになった。道の脇を彩っていた雑草畑もアスファルトやピーマンだとかナスだとかが植えられている畑に変わり、四軒の家が見えてた。もっとも、家と言っても納屋とかがあるから実質的な建物の数と言えば、十軒だ。古めかしい十軒の家々と畑とが、僕らの歩いてきた道の続きの脇を固めている。さっきまでのありのままの自然から一気に人間社会に戻ってきた印象だ。文明の中に再び放り込まれたみたいだ。ただ、周囲は山の近くゆえに雑木林で囲まれている。この先の道を行けば、急こう配な坂道が続いて、杉の森が続く道になる。それくらいの場所だ。多分、片山町の末端って言っても良いと思う。ここが最後で、ここを最後に片山町は終わる。
片山町の場末に、場末通りって僕が勝手に呼んでいる本町から遠い場所に僕のばあちゃんは居を構えている。平家建てで、この場末通りで一番立派な家にじいちゃんと二人、仲睦まじく住んでいる。
「ここが杏子のおばあ様が住んでいる場所?」
「ええ、そうです。ここです。僕が生まれてから、中学の終わりまで住んでいた場所です」
「へえ……」
場末通りを先輩は、キョロキョロと見回している。物珍しい古民家に好奇心に溢れたんだと思う。だから、先輩は一番自然な表情を浮かべている。顔を緩めて、目を輝かせた無垢な表情を。それから一切の仮面を外した先輩は、僕の傍から離れて、真っ直ぐと続く道を子供っぽく歩き始めた。何かを、自分の知らない何かを求めるために。飛んで遊ぶ小鳥のように。
傍から想い人が先に行ってしまった。少し寂しい。けれど、残念なことに僕は先輩と同じ速さで走れるほどの体力は無い。酷く情けないことだけど、先輩に歩調を合わせてもらっても、僕の体力的な余裕が生まれることは無かった。まあ、息は上がらなかったけど、心拍数は上がってるし、足が辛い。だから、僕はゆっくりと歩きながら、先行くお転婆な先輩を見守ることしかできない。本当に情けない。
「先輩、そこで止まってください! そこがばあちゃんの家です」
当然ながら、ゆっくりと歩く僕よりも先に先輩はばあちゃんの家の前に着いた。それは坂の終わりに一番近い家を始めとして、三軒目の家だ。陽太の家よりも大きい平家の主屋と、二階建ての納屋のある田舎の家だ。納屋に隣接する畑は、小さいけれどそれでも場末通りのどの家よりも広い。そして、そんな家はマサキの生垣で囲まれている。入り口にはちゃっかり、屋号が彫られた年代ものの石造の門まで構えてる。
そして、先輩は成金くさい門の前で立ち止まった。それから門を指差しながら、首を傾げて見せた。それに僕は頷く。
「良し……」
体力がない。けれど、先輩を待たせる訳には行かない。だから、僕は先輩に向かって走って行く。足取り
はおぼつかない不恰好な走り様だ。
「杏子、本当にここが貴方のおばあさまのお家?」
「ええ、そうです。まあ、ばあちゃんがお嫁さんとしてこの家に入ったから、じいちゃんの家って言った方が正しんですけどね」
「……立派な家」
先輩の下にたどり着いた僕は、目を輝かせながら尋ねてきた疑問に答えた。けれど、当の本人は僕の回答なんてどうでも良いらしく、そのつぶらな瞳を開いて、キョロキョロとばあちゃんの家を見回している。
可愛らしい先輩を傍に、僕もノスタルジアに浸る。久々の実家は、どこか輝いて見える。懐かしさを帯びている。おでこから垂れてくる汗もそのままに、僕は棒立ちになって久々の実家を見つめる。
そんな懐かしの実家からは、見慣れた背が僕よりも握り拳一つ分小さい人が、着古してすっかりよれた褪せた空色の生地に、白いストライプ柄の入ったボタンシャツと土に汚れた紺色の作業着を下に履いて、ゴム製の作業靴をトタトタと鳴らしながら、麦わら帽子を被って出て来た。あの服装と彫りの深い顔はじいちゃんだ。
半年前から変わらないじいちゃんは、僕に気付くと目をギョッとさせた。それから、足早に僕の方に、違う、先輩の方に近づいて来た。そして、節っぽくて、皺に塗れた両手で、先輩の手を握った。
「霞」
そして、一言、普段はあまり喋らないじいちゃんがやけに湿っぽい声で僕の母さんの名前を紡いだ。
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