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トラギエーディヤと恋  作者: 鍋谷葵
発見の夏休み
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31/41

30

 僕らは玄関に立ったまま、相も変わらず俯いていた榊を陽太の家の客室へと案内した。客室ははなれにある。玄関から入って出た謎の空間よりさらに奥、幅広の階段と和室の間の古めかしい木戸を開けて、短く古ぼけた、ちょっと湿っぽい木床の暗がりの廊下を歩くと、家の離なれに出る。小さな家の離れだ。


「最悪よ」


 榊は短い廊下を歩いている途中そんな言葉を漏らした。後悔の言葉だった。

 榊は、駅前での失態も組み合わさって、頭が真っ白になっていたらしい。それに加えて、想い人の自宅だ。緊張しないはずがない。それだから、さっきまでの自失呆然の榊は、偶然じゃなくて必然だったんだ。若干、そのことにも榊は照れていた? いや後悔していたみたいだ。僕としては、そんな些末なことを気にしなくとも良いと思うんだけどね。まあ、今はもう元気活発になっているから、何の心配も無いと思う。

 自我を取り戻して、普段通りの勝気な姿に様戻りした榊とそんな榊を肩を共にする僕は、僕にとって見慣れた和室に荷物を置いた。今はもう懐かしい陽太の祖父たちが使っていた十畳程度の和室だ。もちろん、寝るときは別部屋だ。隣にもこの部屋と同じ書院造りの和室があるからね。そっちは、陽太の祖母が使っていた部屋だ。部屋の大きさに差異は無いし、内装もほとんど同じの部屋がね。ちなみに陽太は、今そっちの部屋を掃除している。僕の方の部屋は、僕らが来る前に掃除が終わってたみたいだけれど、隣の部屋の掃除は間に合わなかったらしい。朝苦手な陽太が、朝早く起きて掃除をしてくれたなんて嬉しい限りだ。もっとも、こんなことを直接あいつに言ったら気味悪がられるし、僕も照れくさいから言わないけれどね。

 隣の部屋からは、箒で畳を掃く音が荒く乾いた硬い植物と温かみのある柔らかい植物が擦れる心地良い音が聞こえてくる。そんな音を僕らは、いや榊に聞こえているかどうかは分からないけれど、一応共有しながら、荷物を畳の上に置いた。それから、僕は部屋の吊電燈を点けて、古ぼけたクーラーの電源を点けた。若干カビ臭い冷気だったけれども、無いよりはマシだ。襖を開けた時、ムワッと僕らを襲ったあの暑い空気に比べれば、まだこっちの方が良い。


「カビ臭いわね」


「それは言わない約束だよ。この家だって古いんだ、しょうがないだろ? それに滅多に人が使わない部屋なんだからさ。それにカビ臭いのが嫌だったら、冷たい風が当たる場所を占領しないでくれないかな? 一応、僕も居るんだからさ」


「嫌よ」


「強情だ」


 ただ、その冷気を僕が浴びれるかと言ったら話は別になる。既にクーラーの冷気が直に当たる場所には、榊が寝転がっているから、僕は蒸し暑い部屋の片隅に行くしか道が無くなった。独裁的な占領には反対だ。けど、榊も疲れているんだ。仰向けに寝転がって、黒ずんだ木の天井をじっと見つめる程度には身体に疲労が溜まっているんだ。

 なら、譲ってあげよう。譲歩だ。僕から榊へのね。

 伝わるはずの無い譲歩をしながら、僕は砂壁に背中を預けて、畳の上に足を投げ出すように座った。ざらざらとした砂壁が、頭皮に当たって若干不快だ。でも、こんな不快さも、もう陽太の家かばあちゃんの家に行かない限り味わえない。そう考えれば、この不快さも風流の一つに様変わりする。まあ、この風流は風鈴と違って涼しさは味わえないから本当に考えの転換に過ぎないんだけれど。

 古ぼけた部屋に光を差し込ませている古びた障子窓があるのに、開けられないのがもどかしい。きっと、この建て付けの悪い窓を開ければ、影で冷まされた夏の心地良い風が入ってくるんだろうに……。でも、榊を敵に回すよりは良いんだろうけど。


「それにしても良い家ね。私、こんな純和風の家初めてだから感激しちゃったわ。畳なんて中学校の修学旅行以来よ。ここに居るだけで、旅行気分みたい」


「まあ、確かにね。僕もアパート暮らしだからつくづくこんな部屋が恋しくなるよ。中学までは、こんな部屋に住んでたからことさら懐かしいよ」


 そんなことを思う僕のことは当然、榊には分からない。分かってもらおうって言う方が傲慢だから、僕も榊に何を思う訳でも無い。榊も何も思わない。

 程よい疲労を感じ、リラックスしている榊は寝ころびながら、グッと身体を伸ばすとうっとりとして、昔を懐かしむ口調で懐かしさを紡いだ。僕も同じように天井を何気なく見上げながら、ノスタルジアに浸る言葉を漏らした。

 この言葉を最後に僕らの間には、沈黙が生まれた。何だか会話する気になれない。きっと程よい疲労と濃厚な和の空気が僕らの心を和ませたからだと思う。だからか、僕らの間は心地良い空気に満ちている。ただ僕らの間に干渉してくるのは、陽太の掃く箒の音、蝉の鳴き声、僕らの呼吸音と通りを進む僅かな自動車の排気音だけだ。

 良い気分だ。段々と眠くなって来た。朝早く起きたツケがここで回ってきた。これからやらなきゃいけないことがあるのに、僕の身体はじっとりと疲れと睡魔に浸って行く。誘惑の眠りの霧が僕の身体を包み込む。緩やかに下って行く僕の意識に対して僕の理性は無力だ。といよりも、人間の根源的な欲求である三大欲求を抑え込めると思い込む方がおかしいんだ。そんなのは自惚れだ。

 でも、自惚れようとも今の僕に、僅かな時間すら惜しい僕には睡魔に抗わないといけない使命がある。例えそれがありとあらゆる聖人を魅了する誘惑の霧であろうともだ。僕は聖人君主みたいな殊勝な人間じゃないことは良く分かっている。欲に弱く、直ぐに集中は途切れて違う方向に向かっていくことくらい自分で分かっている。けれど、自分を律してこの二度と訪れない貴い瞬間に僕は行動をしなきゃならないんだ。瞼の重さはセイレーンの歌、誘惑の睡魔はキルケーの魔法だ。そして僕はあまりにも愚かなオディッユセウスだ。自覚しているさ。けれど、ペネロペへの愛はかの神話の英雄と同じくらいあるはずだ。だから、僕もこれに耐えよう。


「ごめんなさい。ちょっとだけ寝させてもらうわ。陽太が来たら、起こしてくれない?」


「うん、良いよ。あいつが来たら起こしてあげるから、それまで短い間かも知れないけれどゆっくり眠りなよ」


「矛盾ね。でも、ありがたく寝させてもらうわ。それじゃ」


 眠たそうな声で、僕に僅かな間の睡眠の挨拶をした榊はそのまま目を閉じて寝てしまった。こうして僕の中の誘惑を止める人は誰も居なくなった。セイレーンの歌声は頭の中に響き渡り、したたかな悦楽を絶え間なく与えてくるキルケーは、僕を堕落させようとして来る。せっかく決め込んだ覚悟は脆く砕かれようとする。波濤に揉まれる岩石のようにでは無く、固める時間を間違えて柔らかいまま型から出してしまったプリンみたいな崩れ方になると思う。見っとも無い脆さだ。

 ともあれ僕の目の前では、さっきまで僕と話していた榊が安息の寝息を立てている。そして、それを称える様に障子窓からは、緩やかに力を弱めた丸みを帯びた夏の日差しが輝かしく優しく差し込んでくる。もしかしたら、この光は僕に、精神疲労で脆弱になった僕に休息を伝えるための天からの使いなのかもしれない。あんまり空想が過ぎる。駄目だ、最近こんな妄想めいたことを随分と考えるようになった。神経が本格的に参ってるのかもしれない……。

 何時か決めたネガティブな発想を止めようってことも、こう自分自身の誘惑に負けそうになる自分を見つめていみるとそれすらも破りたくなる。とことん根性の無い奴だ。ため息が漏れる。

 ただ、僕の溜息は丁度良いことに誰にも聞かれない。こと僕のことをありがたいことに心配してくれる榊には届かない。本当に良かった。溜息の陰湿さは、夏の陽気と榊の寝息と合わさって消え去る。僕の下には汚泥の塊だけが残る。神話の怪しい美しさに形容していた僕の甘えは、汚らしい泥濘となった。

 落ち込む。そう、僕は落ち込んだ。けれど、そのおかげで僕を支配してたあの誘惑は消え去った。今、頭の中にあるのは、僕の脆さだ。意志の弱さだ。そして、あの夢の中に出てきた恐ろしい男の充血した双眸の冷たさだ。


「……全く」


 嘆息が漏れた。

 これもまた消えてゆく。けれど、そんな落ち込み過ぎている僕を励ます? かのように襖の向こう側からはあいつの声が聞こえた。いつの間にか、箒で畳を掃く音は消えていた。代わりにドタドタと騒がしい音が聞こえてきた。


「ちょっと姉ちゃん!? 待ってって! 何をそんなに興奮してんのさ! ちょいちょい! って、何で!?」


 どうやら家に居なかった椿さんが帰って来たらしい。そして、椿さんは何やら興奮してるらしい。一体なんでかしら? 白々しいこと僕だ。人の好意に気付いて、それを真っ向から拒絶しているにもかかわらず、あの人に会えるってなると少しだけ僕の心の汚泥は浄化されるような気がするんだから。恥ずべきことだ。それなら人の好意なんて知らない方が良い。

 だけれど、その足音は、僕をどこか少しだけ晴れやかにする足音は近づいて来る。従って、寝入った榊も目を覚ます。心地の良い静寂からの騒音だ、目覚めるに違いない。榊はむくりと起き上がると、目頭を指で押さえながら、眉間に皺を寄せた。それから僕に何を言う訳でも無く、閉ざされた襖を見た。その瞬間、襖は勢いよく開けられた。せっかく冷えた部屋に再び熱気がもたらされる。


「杏子君! 来るなら来るって言ってよ!」


「言いませんよ。椿さんに言うとこれ以上に面倒臭いことが起きるって何となく分かってましたから」


「酷い! 男の子だったら嘘でも女子の優しい言葉を掛けた方が良いのに!」


「そう言うところですよ」


 そして、熱気を体現するような椿さんが汗をたらりと頬につたわせながら、ほんのりと息を荒げて僕にそう言ってきた。きっと、この場に陽太と榊が居なければ僕に抱きついてきたと思う。そこを踏みとどまって、襖に手を掛け、興奮して疼く身体を押さえられているだけ良くやってし、僕にとってもありがたい。上から目線だし、僕の自惚れかもしれないけれど。

 でも、それでも、僕に抱きかないこの確信を僕はありがたく思う。何せ、陽太と同じように半袖短パンの薄手の椿さんに抱きつかれようものなら、僕は何かどことは言わないけれど、反応してしまう気がするからね。それも陽太と違って、椿さんは服装もお洒落だ。身体のラインを上手に沿う右胸にバラの刺繍が施されたアイボリー色の半袖シャツと健康的な脚を見せる軽やかで涼しげな作りをした無地の黒い短パン。そんな装束の美人に抱きつかれたら男性なら誰だって反応すると思う。もっとも、例外も居ると思うけれど。けれど例外では無い僕からしたら、椿さんの理性の静止は、ありがたいことこの上なかった。

 感謝の意のため、僕は普段よりも優しい言葉を椿さんに掛けた。もちろん、さっきまで寝ていた榊は子のお転婆な先輩を睨むように見ている。あの榊の冷たい顔を何とも思わない椿さんの鈍感力はすごい。人を殺すようなあの視線をいとも簡単に受け流すその力に関しては、素直に尊敬します。

 ただ、どうやら榊さん以外にも客人が居るらしい。多分、榊さんの友達だと思う。それはこの部屋に向かってくる二人分の足音から容易に想像できることだ。そう、だから二人分、陽太ともう一人の誰彼が椿さんを追ってここに来る。

 先に現れたのは陽太だった。陽太は椿さんの肩を掴んで、いきり立つ椿さんを弟として諌めようとしていた。けれど、そんなことは出来ない訳で、陽太は開いた左手で顔を押さえるとあからさまにやれやれと首を振った。そして、次にもう一人……。


「あら、杏子。奇遇ね」


「……先輩?」


 思いもよらぬ人を椿さんは連れてきた。陽太があんなに慌ててた理由が分かる人を椿さんは、連れて来たんだ。

 ああ、僕の想い人。先輩だ。

ご覧いただきありがとうございます。

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